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【茨城】

<つなぐ 戦後73年>「戦争なんてバカなこと」 土浦海軍航空隊で阿見大空襲体験・内田さん 

日記を手に土浦海軍航空隊予科練生の日々や阿見大空襲などを振り返る内田武司さん=静岡県伊豆の国市で

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 「平成最後の八月十五日」は終わっても、不戦の誓いは続く。太平洋戦争末期、土浦海軍航空隊(阿見町)の予科練生だった内田武司さん(92)=静岡県伊豆の国市=は一九四五年六月十日、三百七十四人が犠牲になった阿見大空襲に見舞われ、多くの仲間を一瞬にして失った。「戦争なんてバカなことはやるもんじゃないよ」と強調する。 (佐久間博康)

 内田さんは現在の伊豆の国市出身で、地元の小学校高等科を卒業後、川崎市の軍需工場で旋盤の部品を作る仕事をしていた。

 戦争が始まると、職場で戦争に行くのは当たり前という空気が広がり、自然と兵隊を志すように。六歳上の兄が中国に出兵したまま戻っていないため両親は反対していたが、両親に黙って予科練入隊を決意。一九四五年三月末に土浦海軍航空隊に入ることになった。

 隊では、体力作りに加え、数学や通信、砲術など航空兵になる基礎を学んだ。「何かミスをすると、教官にバットでたたかれた。でも、当時はそんなものだと思っていた」と振り返る。

 阿見大空襲は午前八時ごろ発生。警報に慌てて宿舎から二キロほど離れた防空壕(ぼうくうごう)に逃げ込んだ。ドドーッと地鳴りが聞こえた直後にダーンという激しい音とともに、爆風が来て吹き飛ばされた。頭の上に土がバラバラと落ちてくる中、地べたに伏せて耐えた。

 「地獄のような光景だった」。外に出ると、近くの水田には直径十メートル、深さ二メートルほどの穴が所々にでき、亡くなったり、けがで動けなくなったりした仲間が多数いた。兵舎は骨組みだけを残し全焼していた。その日は、防空壕で生き埋めになった人の救出や、行方不明の仲間探しに追われた。

 「それまでは『米軍機をたたき落としてやる』とか威勢の良いことを話していたが、朝まで一緒にいた仲間を突然失い、戦争の恐ろしさが身に染みた。自分の命もいつなくなるか分からないと、怖くなった」

 翌日、谷田部海軍航空隊(つくば市谷田部)に移った。防空壕掘りやサツマイモ畑の手入れをして過ごし、終戦を迎えた。上官から敗戦を告げられた時は、情けなさと悔しさが込み上げ、仲間と涙を流した。航空隊の司令から「米軍が上陸し大変なことが起きるかもしれないが、命を張って女性と子供を守れ」と訓示されたことが印象に残る。

 八月下旬に除隊となって以降は実家に戻り、従軍中に亡くなった兄に代わって家業の農業を継いだ。地元の町議も三期務めた。「戦争によって多くの若い有能な人に無駄骨を折らせてしまった。二度と繰り返してはいけない」と訴える。

<土浦海軍航空隊> 霞ケ浦海軍航空隊(阿見町)から予科練部門が独立移転する形で1940(昭和15)年11月に発足した。太平洋戦争終盤に予科練が全国に発展する際の始まりの地とされている。終戦に伴い解隊した。阿見町には予科練の資料を展示している「予科練平和記念館」がある。問い合わせは、記念館=電029(891)3344=へ。

 

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