東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 茨城 > 記事一覧 > 8月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【茨城】

<ひと物語>幕末〜明治 水戸市出身 相撲の近代化に尽くした大横綱・常陸山谷右衛門(上)

常陸山

写真

 常陸山谷右衛門は幕内在位三十二場所、横綱を務めたのは十年四カ月という勝負強さに加えて相撲界の近代化、さらには国際化に貢献し、師匠としても多数の関取を育成する名伯楽ぶりを発揮するなど、数々の功績を残されたことから後世、「角聖」とも称された大横綱でした。

 常陸山の本名は市毛谷(たに)といい、水戸藩士の長男として一八七四(明治七)年一月、現在の水戸市城東で生まれます。幼少時代から体格がよく、相撲向き。ところが父親は、武家の長男が裸踊りの見せ物芸人になるなどもってのほかと猛反対。

 相撲は、日本書紀に出てくる野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力比べに由来する伝統的な格闘技でもあったが、明治時代の相撲界は見せ物、興行的要素があり、現在のようなスポーツという概念は希薄だったようです。 

 水運業の父親は武家の商法で、やがて倒産したため、谷少年は旧制中学を中退し、おじを頼って上京します。彼の体格、性格を認めていたおじは父親に、彼の角界入りを説得し、ようやく許しを得ます。

 一八九一年一月、四代目出羽海運右衛門に入門。角界入りを果たします。四代目も水戸出身で、大の酒豪でした。けれど弱小部屋で経済的困難をきたし、稽古場もないありさま。高砂部屋に出稽古に行くほどでした。それでも五月、御西山のしこ名で初土俵を踏みます。御西山とは、徳川光圀が晩年すごした西山荘にちなみます。

 素質にめぐまれた御西山はとんとん拍子に番付を上げ、一八九四年一月には、しこ名を常陸山と改め、翌年五月には幕下に昇進します。

 この年の十月、名古屋相撲に加わります。当時の角界は東京相撲、名古屋相撲、大阪相撲がそれぞれ独立していました。名古屋相撲参加は結果的に大きな収穫でした。一層、技に磨きがかかり、出世するとともに広瀬武夫海軍中佐に出会うからです。

常陸山生誕の地を示す記念碑=水戸市で

写真

 「二人は義兄弟のちぎりを結ぶほどになり、お互い尊敬しあいます。二人とも下級武士の子であったこと、あるいは軍人も力士も最後は勝ち負けがすべてという共通点が、二人を結び付けたのかも知れません」

 那珂市歴史民俗資料館の仲田昭一館長は、そのように説明します。 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「常陸山谷右衛門」(式守伊之助、筑波書林)

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報