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【茨城】

<ひと物語>幕末〜明治 中山元成(上) 坂東市出身、緑茶輸出の先駆者

坂東市の県立農業大学校内にある中山元成の胸像(市立資料館提供)

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 さしま茶は奥久慈茶、古内(ふるうち)茶と並ぶ県内の三大茶どころと言われます。では、さしま茶の具体的エリアはどこでしょう。石山嘉之・さしま茶協会会長に聞きました。

 「利根川と鬼怒川にはさまれた古河、坂東、常総、境、八千代の三市二町で生産された茶をさしま茶と言います」。そして、さらに続けてこう言います。「さしま茶は現在、約百ヘクタールの茶畑で栽培されてます」

 緑茶は日本人の嗜好(しこう)品。生活がいかに洋式化してもお茶にせんべい、饅頭(まんじゅう)という習慣は失いません。

 総務省家計調査における二〇一五年から一七年の一世帯当たりの茶類(緑茶、紅茶、ペットボトル入り茶飲料など)の消費額は一位静岡市、一万七千七十九円。二位川崎市、一万五千九百八十二円。三位水戸市、一万五千九百六円となっています。

 実は、さしま茶はわが国最初の緑茶の海外輸出第一号でした。輸出に先鞭(せんべん)をつけたのが中山元成です。彼は一八一八(文政元)年十月に現在の坂東市辺田で生まれ、五九(安政六)年十月、米国向け緑茶輸出を開始します。

 緑茶の海外輸出に着目した背景には、儒学者の河田廸斎(てきさい)と、友人で商人の高木五郎兵衛の二人の存在がありました。まず河田との関係はこうでした。

 「ペリーが二度目に来日した際、幕府の交渉役であった林大学頭の若衆として元成は両者のやりとりを見ていたんです。本来、彼は民間人なので、こうした場にはいられない。だから、河田が林に彼を紹介したんです」(石山会長)

 ペリー提督は黒船艦隊を率いて五三(嘉永六)年六月、浦賀沖に停泊。日本に開国を迫る米国大統領の国書を幕府に渡し、一年後の再訪を伝えます。ところが半年後に再訪し、開国に関する日米交渉を開始。元成が同席したのは、この時でした。

 河田は青年時代、三年ほど中山家に身を寄せていた。そこで、元成は河田と親交を深め、彼を介して林の若衆となり、交渉の様子をつぶさに観察し、この体験が後の緑茶輸出に着目させるのでした。

 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「さしま茶調査報告書 横浜開港期前後から明治期への変遷」(さしま茶協会)

 

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