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【茨城】

<ひと物語>幕末〜明治 中山元成(下) 輸出量は増加の一途

緑茶の海外輸出に貢献した中山元成の顕彰碑=坂東市で

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 中山元成は旧知の仲であった商人の高木五郎兵衛に依頼し、緑茶の輸出交渉に当たらせます。高木は横浜に出店し、外国商社との交渉や人脈を深めていたからです。

 高木の尽力が功を奏し、米国商社ホール商会とは価格面でも妥結し、『鳳凰山』という銘柄茶の輸出契約を結びます。さらに、同時に進めていた英国商社エムストン商会を任されていた中国人二人との交渉もまとまり、元成は四十一歳にして、ようやく念願の海外輸出に展望がひらけていきます。

 ホール商会との契約成立を契機に元成は二、三種類の緑茶売り込みを図ります。緑茶輸出に道筋がついたことで安堵(あんど)し、ニンマリしたに違いありません。

 実際、「まさに外国商人に初めて茶を売り込んだのは猿島茶であり、高木であることは市場関係者全員が知るところだ」(さしま茶調査報告書)とやや自慢げに、後の日記で元成は述べています。

 もっとも同じころ、他産地の製茶業者も海外輸出に向けて盛んに売り込みにしのぎを削っており、輸出に着目したのは元成だけではありません。それだけに、「我こそは」と、虎視眈々(こしたんたん)と輸出を狙う業者も少なくないのです。

 そのような中で一歩先んじて、さしま茶の輸出を勝ち取るには苦労もあり、してやったりと思う元成の気持ちも理解できます。

 元成の輸出を契機にわが国の緑茶輸出量は増加の一途をたどり、横浜港からの輸出量は一八五九年の百八十一トンから六八年には四千六百四十六トンにまで成長し、業者は緑茶特需にホクホク。けれど、輸出増加で悪質業者も現れ、着色料使用の緑茶輸出が発覚し、米国から全量返品される業者もありました。

 時代は明治となり、元成は一層、多忙をきわめ、各種の博覧会や品評会の審査員に就く。あるいは緑茶栽培に関する解説書を執筆するなど、わが国の緑茶発展に貢献します。

 そのため九二年六月の死去後、彼の功績をたたえる記念碑が、故郷の現在の坂東市に建立されます。

 (ノンフィクションライター・岡村青)

<参考文献> 「さしま茶調査報告書 横浜開港期前後から明治期への変遷」(さしま茶協会)

 

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