東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 茨城 > 記事一覧 > 11月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【茨城】

<ひと物語 幕末〜明治>児童教育に尽くした 豊田芙雄(上)

豊田芙雄

写真

 希望する認可保育所に、なかなか入れない待機児童の解消が求められています。子どもたちは将来を担う大切な人材だけに、幼児教育を軽視してはいけない。

 豊田芙雄(とよだふゆ)が存命であれば、このように語ったに違いありません。

 「彼女はわが国の保母第一号として児童教育に尽くされました。誕生した時の名は冬でしたが、その後、芙雄、芙雄子などを使い、一般的には芙雄と言います」

 笹目礼子・県立歴史館歴史資料課長はそう説明します。これに従い、「芙雄」を使います。

 芙雄は一八四五(弘化二)年十月、現在の水戸市で生まれます。父の桑原治兵衛は水戸藩士。母の雪子は藤田幽谷の次女。藤田東湖の妹でした。幽谷、東湖といえば、尊王攘夷の水戸学を確立し、藩内だけでなく他藩にも大きな影響を与えた学者でした。

 このような血脈を受け継ぎ、芙雄も才能豊かでした。幼少時代から母親に詩歌を聞かされます。十四歳ごろには書道や女礼式を学び、裁縫も身につけ、さらに父親からは和漢を学び、他の女性から薙刀(なぎなた)の手ほどきを受けるなど文武両道の習得に大わらわです。

 けれど、十一歳の時に、母親が死去。続いて十七歳の時に、父が他界するなどの不幸に見舞われます。

 心の空白を埋めたのは豊田小太郎との結婚です。彼は幽谷らに学んだ学者の豊田天功の長男。天功は桑原と親しく、小太郎は、芙雄の兄の力太郎とは兄弟同様に交わります。

 このような関係から芙雄は小太郎に嫁ぎます。一八六二(文久二)年六月でした。

 結婚生活はわずか四年ほどでした。六六年九月、小太郎は刺客に暗殺されたからです。時代は開国か鎖国かで騒然とし、殺気立っていました。特に、水戸学の影響が濃厚な水戸藩は対立で分裂状態でした。小太郎は蘭学研究に努めていた関係で海外事情に精通。開国に理解を示し、「開国進取の大計を定めたい」との思いを抱いて水戸藩を脱藩し、同志とともに京都に向かいます。

 彼の開国論は攘夷派には目ざわり。京都堀川で暗殺されます。三十三歳でした。けれど、夫の死が芙雄の人生の大きな転機になるのでした。

<参考文献> 「日本幼児教育の先覚」(渡辺宏、崙書房)

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報