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【神奈川】

まだ1冠、ここが始まり フロンターレ、悲願のJ1制覇

川崎市内で10日に行われた優勝記念パレードでガッツポーズする中村憲剛選手(中央)=川崎区で

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 いつのころからか。時として中村憲剛(37)をある人物と重ね合わせていることがありました。

 陸上の女子短距離走者、マリーン・オッティです。ジャマイカに生まれ、20歳で1980年モスクワ五輪に出場。200メートルで3位の華々しいデビューを飾ります。

 伸び盛りの彼女は「すぐにでも世界トップの座を手にする」と言われていました。ところが、84年ロサンゼルス五輪で100、200メートルとも銅メダル。3年後の世界陸上選手権でも同様でした。

 世間は半ばからかうように「ブロンズの女王」「ブロンズ・コレクター」と呼ぶ。むろん反発心が生まれる。88年ソウル五輪、選手として脂ののりきった彼女だが、ケガで100メートルを棄権、200メートルも4位に。普通なら失意から引退も頭をかすめるところを「こんな終わり方では納得がいかない!」。

 勝利のみが私を救ってくれる−。厳しい鍛錬を重ね、翌89年には室内世界選手権で勝ち、90年グランプリファイナルでついに200メートルで金メダルを手にしました。

 ただ、その後も優勝とは縁遠く、92年バルセロナ五輪で3位になったときは「欲しいのはこの色じゃない」と泣き、96年アトランタ五輪での100メートルでは優勝者と同タイムながら2位。この時は36歳になっていた彼女の競技人生を知るスタンドの観衆が称賛の拍手をおくったのでした。

 フロンターレがダブります。中村がダブります。2003年からフロンターレ一筋。8度の「シルバー」すべてを知っている。初優勝の瞬間、サポーターの歓喜に包まれ、感涙を隠そうともせず「この光景が見たかったんだ」と言葉をしぼり出しました。「このままでは終われない」「この色じゃない」。マリーンと同じ強い意欲が見えました。

 マリーンはその後、00年に100メートルを10秒99(生涯67度目の10秒台)の40歳以上の世界記録を出し、移り住んだスロベニア代表として12年の欧州選手権に52歳で出場。400メートルリレーを走っています。

 J1制覇で確かに一つの目標は達成しました。でも、終わったわけではありません。それどころか、ここが始まりです。なにせ、まだ“たったの1冠”。来季は手にできなかったタイトルを一つでも二つでも。フロンターレが未来へ向けてスタートを切った。意欲を新たにした。そういうシーズンだったと思います。 (スポーツライター・財徳健治)

 

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