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【神奈川】

市が1999年設置「六道の辻通り」の石碑 なぜ違う通りにあるの?

実際とは異なった場所に立つ「六道の辻通り」の石碑=中区で

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 横浜市中区常盤町5の市道に「六道(ろくどう)の辻通り」と刻印された石碑がある。明治初期から関東大震災(1923年)まで交通の要衝として多くの人が行き交った六差路「六道の辻」にちなんで建てられたにもかかわらず、実際とは違う通りに立っている。いったい何があったのか−。 (志村彰太)

 六道の辻は幕末から明治初期にかけて関内地区を埋め立てる過程でできた。横浜開港資料館の伊藤泉美・主任調査研究員は「この場所には、埋め立て地の排水のために設けた川が街区を斜めに横切るように走っていた。明治初期に川を埋め立て、六差路になったようだ」と解説する。

 「中区史」は六道の辻を「にぎわいの中心的存在」である吉田橋などとつながる交通の要衝だったと記述。関東大震災後の区画整理で、現在のような交差点になった。

 石碑は一九九九年、馬車道から北西に一本入った、本来の六道の辻から五十メートルほど離れた場所に市が設置した。市中土木事務所の岡哲郎副所長は「馬車道商店街から要望があったようだが、文書が残っていないため詳細は不明」と説明。歴史的に正しい場所か検証した形跡はないという。

 場所が違うのは、地元商店主らでつくる「関内を愛する会」(解散)がそもそもの原因をつくったとみられる。同会は九二年三月、関内地区の市道の愛称を公募。半年後、有識者、市幹部らと共に、後に石碑が設置される通りを「六道の辻通り」とする案を採用した。馬車道商店街協同組合の山口和昭副理事長は「多数の応募から選んだと思うが、資料が残っておらず、どの程度史料を検討したかは分からない」と話す。

 市のまちづくりの歴史に詳しい市都市デザイン室の担当者は「石碑は六道の辻につながる斜めの道路の跡地に近く、完全に誤っているわけではない」と唱えるものの、史料の確認が不十分だったのが真相のよう。山口副理事長は「この謎めいたところも、馬車道周辺の魅力を引き立てているのでは」とプラスに評価している。

 

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