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【神奈川】

「一瞬の夏」は終わらない カシアス内藤の挑戦 (中)夢の続き、ジムに

 しびれた体は動かない。「ファイブ!シックス!」とカウントを取る声だけが聞こえてくる。「終わったんだな」。一九七九年八月、ソウルで行われた東洋太平洋王者決定戦で朴鐘八(パクチョンパル)に二回KO負け。次戦も敗れ三十歳でリングを離れた。

 四九年、米兵の父と日本人の母との間に生まれた。幼い頃に住み始めた横浜市中区には米軍の接収地が多く残っていたが、小学校で褐色の肌は一人だけ。同級生に石を投げられたり、かばんを隠されたりした。父は朝鮮戦争で戦死し、女手一つで育ててくれた母から「あなたは周りとは違う。何かで日本一になることで、やっと認めてもらえるのよ」と言われて育った。

 進学先の武相高校(港北区)にボクシング部があった。身長一八〇センチと大柄で腕っ節に自信があった内藤は「試してやろう」と試合をした。自分より小さい相手にボコボコにされた。「悔しかった」と小学校から続けていた陸上をやめた。

 すぐに頭角を現し、三年で高校王者に。六八年にプロデビューすると七〇年に日本王者、翌年には東洋王者になった。デビュー数年後から使うようになったリングネームは、憧れの米国人ボクサー、モハメド・アリのイスラム教改宗前の名前、カシアス・クレイから取った。来日時に直接訪ねて行って了解をもらった。

 娯楽が少ない時代。ボクシング人気は高く、重いパンチで次々と相手をなぎ倒して22勝(10KO)2分けの戦績を誇る男に、日本人には手が届かないとされたミドル級(69・85〜72・57キロ)の世界のベルトを期待する声が高まっていった。

 ところが、所属ジムは利益を優先してファイトマネーが少ない海外での試合を避け、なかなか世界戦は組まれない。東洋のベルトを韓国人の柳済斗(ユジェドゥ)に奪われて一気に気力を失った。持って生まれた気の弱さと優しさもあった。試合前には足が震え、冷酷になりきれず、倒れそうな相手にとどめを刺せない。柳に三度破れ、二十五歳で引退した。

 それでもボクシングへの思いは消えずインドネシアで指導。粗末なリングで練習に励む選手を見て「自分に足りないものに気付いた」と復帰。朴との一戦に敗れグローブを置くことになるものの、その軌跡は作家沢木耕太郎のノンフィクション「一瞬の夏」に描かれ、フォークグループ「アリス」の代表曲「チャンピオン」のモデルにもなった。

 引退後はトラック運転手など職を転々としながら、指導は続けた。「自分と向き合い、極限まで追い込んだ末にしか味わえない勝利の達成感を伝えたかった」

 九一年には元世界ストロー級王者井岡弘樹をジュニアフライ級との二階級制覇に導くなどトレーナーとしての実績を積んでいった。現役時代の経験から「興行優先ではなく、選手を第一に考えるジムを開きたい」。そんな思いを抱いていた内藤に病魔が迫っていた。 (敬称略)

 

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