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【神奈川】

被害、米軍の接収…地域の歴史知って きょう川崎大空襲から73年

会がつくった被災図を示して「軍需工場が多く激しい空襲を受けた」と話す中島邦雄さん=川崎市平和館で

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 川崎市中原区の武蔵小杉駅周辺は今、高層マンションが立ち並び「住みたいまちランキング」の常連だが、一帯は73年前の1945年4月15日、米軍の空襲で火の海となった。地元の住民団体は、調査して犠牲者数を割り出し、空襲のすさまじさを伝える模型制作などに取り組んできた。発足10年目を迎える団体は空襲の日に際し「若い人たちにこそ、街の歴史と成り立ちを知ってほしい」と話している。 (大平樹)

 川崎市が七〇年代に出版した「川崎空襲・戦災の記録」によると、市内一帯は四五年四月十五日夜から翌十六日未明にかけて、「川崎大空襲」と呼ばれる大規模な空襲を受けた。

 当時は臨海部や南武線沿線に兵器の部品などの工場が多く、攻撃目標にされた。市内全域の犠牲者数は約千人とされているものの、詳細な数には諸説ある上、地区別の内訳は分かっていない。直後の焼け跡などの写真が残っているのは臨海部の川崎区が多く、中原区のものはほとんどない。

 「区内に約五十年住んでいるのに、地元で空襲が話題に上ったことがなかった。どこで誰が被害を受けたのかもよく分からなかった」。二〇〇九年に発足した住民団体「川崎中原の空襲・戦災を記録する会」会長の中島邦雄さん(83)は振り返る。

 公民館事業として集まった約四十人の会員たちが三年間かけて、空襲体験者ら約二百人から聞き取り調査を行い、中原区一帯では少なくとも七十七人が犠牲になったことを突き止めた。空襲被害があった場所を地図に落とし込んだ被災図もつくり、これらをまとめた冊子を一二年に刊行した。一一年からは毎年二月ごろ、区内で調査結果のパネル展などを開いている。

 会によると、数百人の来場者に行ったアンケートでは、約三分の二が空襲被害を知らなかったと答える。中島さんは「住民の入れ替わりが激しい土地なのかもしれないが、タワーマンションが立ち並ぶなど発展した現在とのギャップが大きく、空襲があったことを想像できない人が多いのではないか」と語る。

 定期的に地元の小学校で出前授業をしたり、会員の中野幹夫さん(82)が手掛けた紙芝居を幼稚園で上演したりして、空襲のことを伝えている。昨年は会員で工作が得意な橋本稔さん(74)が、段ボールと発泡スチロールで焼夷弾(しょういだん)の模型を作り、パネル展の展示物に加えた。軍事関係の資料などから図面を起こし、六角形の小爆弾の筒を詰めたことが分かるように断面を見せる工夫も凝らした。橋本さんは「体験談だけでは空襲の恐ろしさが伝わらない。模型を見れば、空から大量に落ちてきた様子をイメージしやすいのでは」と話した。

 会によると、田畑が広がる一帯に多くの軍需工場がつくられたのは昭和初期。空襲を受けた東京航空計器は終戦後、米軍に接収されて「米陸軍出版センター」になった。全面返還は一九七五年。中島さんは「出版センターはベトナム戦争の情報戦にも何らかの形で関わっただろう」と感じている。

 返還された跡地には中原平和公園や川崎市平和館ができ、今では多くの子どもたちの遊び場になった。中島さんは「空襲被害を受けて、米軍施設となり、返還されて今がある。この土地の歴史を、若い人たちにこそ知ってほしい」。活動への意欲をあらためて強くしている。

 

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