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【神奈川】

<1998 YOKOHAMA 六つの奇跡> (3)春の甲子園優勝の横浜高

関大一を下して優勝し、抱き合って喜ぶ松坂投手(右から2人目)ら横浜ナイン=1998年4月8日、甲子園球場で

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◆痛恨の暴投が意識を変える

 一九九七年七月二十九日、横浜スタジアムで行われた県大会準決勝の横浜商戦。九回裏に2−2の同点に追いつかれ、1死一、三塁。二年生エース松坂大輔(37)=現中日ドラゴンズ=がスクイズを警戒して外した一球は右に大きくそれた。暴投になり、サヨナラ。「先輩たちの夏を終わらせてしまい、肩を震わせて同級生みんなで泣いた」。捕手小山良男(37)=現中日ドラゴンズスカウト=は昨日のことのように振り返った。

 「全ては横浜商戦の負けから始まった」。二〇一五年夏の大会を最後に勇退した前監督の渡辺元智(もとのり)(73)は語る。新チームになり、松坂は「One for all(一人はみんなのために)」との言葉を座右の銘に掲げ、練習に打ち込むようになった。

 後に「平成の怪物」と呼ばれ栄光を欲しいままにする松坂も、決して鳴り物入りで入学したわけではなかった。「球は速くても、コントロールがなかった」(渡辺)。野手に転向させる考えもあったというが、他にこれといった逸材もおらず、投手として育てることにした。

 最初にやったのは太り気味の体を絞ること。渡辺は「球場一周を走らせ、六十五秒より遅ければもう一周。時間設定を厳しくして延々と走らせた」と明かす。

 そうした努力の成果でエースナンバー「1」をつかみ、甲子園まであと二勝に迫っていた時の痛恨の暴投。悔しさをバネにさらに努力を重ねた松坂の投球は安定感を増し、秋の県大会と関東大会に続き明治神宮大会を優勝。無敗で春の選抜甲子園大会に乗り込んだ。

 初戦の報徳学園(兵庫)に6−2で完勝。校歌を歌い終えたナインは喜びを爆発させ、応援団が待つアルプス席に走りだした。ところが、そこに松坂がいない。「足をけがしていた選手に合わせてゆっくり向かっていた」(小山)。精神面でも一回り大きくなっていた。

 順調に勝ち進み、準決勝の相手は優勝候補のPL学園(大阪)。同校を春夏合わせ六回の全国制覇に導いた名将・中村順司(71)が、大会後に勇退することが決まっていた。ひときわ燃える相手を3−2で下し、渡辺が「大きな牙城を崩した」と評すように最大のヤマを越えた。

 九八年四月八日の決勝は関大一(大阪)を3−0で完封。松坂は五試合を一人で投げ抜き、失点わずか4に抑えた。「厳しい試合でも踏ん張って投げられるようになった」と渡辺。夏の県大会も危なげなく勝ち上がり、小山が「高校野球史に残る場面に自分がいられたことがうれしい」と話すほど数々のドラマを生んだ夏の甲子園へと駒を進めた。 (敬称略、鈴木弘人)

 

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