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【神奈川】

横浜大空襲から73年 洋服店経営・津田さん「体験を後世に残す」

「空襲が終わると風景が一変していた」と語る津田さん=横浜市中区で

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 一九四五年五月二十九日、米軍機が横浜市上空に飛来し、八千人(推定)が犠牲になった横浜大空襲から間もなく七十三年を迎える。あまりの体験に記憶を胸にとどめてきた洋服店経営津田武司さん(79)=同市磯子区=はここ数年、ようやく人前で話せるようになった。年々戦争体験者が少なくなる中、「戦争のない未来のために、記憶を伝えていく」と思いを新たにしている。 (鈴木弘人)

 四五年五月二十九日朝、空襲警報が鳴ると当時小学一年の津田さんは母と、市電の間門停留所(中区)近くにあった自宅から、歩いて五分ほど離れた供用防空壕(ごう)に向かった。「バッ、バババー」と焼夷(しょうい)弾が落ちるごう音と共に焦げた臭いが立ち込める。電気が消えた壕にいた大勢の人が悲鳴を上げた。

 空襲が終わり母と外に出ると、風景が一変していた。「市電の線路はぐにゃぐにゃに、電車は鉄骨だけになっていた」。自宅の庭にあった防空壕では大人三人が亡くなり、近所に住む三歳の男女の双子は瀕死(ひんし)の状態だった。「二人とも膝から下が消し炭のように焦げていて、目が少し動くだけだった」と振り返る。

 その後、埼玉県鳩ケ谷市(現川口市)に祖母らと疎開。衝撃から精神のバランスを崩し、小学校の朝礼で一人では列に並べず、祖母に付き添ってもらった。終戦後に引っ越した保土ケ谷区の小学校区は空襲の被害が少なく、家を焼かれた同級生はほとんどいなかった。「雨が降っても長靴がない。服もみすぼらしいものしかなく、よくばかにされました」

 あれから何十年たっても、心は癒えなかった。「避難した防空壕が残っているのか知りたい。だけど、つらい経験がよみがえるから近づけない」と津田さん。

1945年5月29日、米軍機の空襲を受けた横浜市中心部(市史資料室提供)

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 空襲の話も母以外とはしたことがなかったが二〇一五年、安全保障関連法案が国会に提出され、「戦争につながるのでは」と危機感を覚えた。市内で開かれたイベントで体験を話し、一昨年は母校の高校から依頼を受けて文章をまとめた。その際に津田さんが手書きした原稿をパソコンに入力して興味を持った大学生と高校生の孫二人にも、初めてあの日のことを打ち明けた。

 空襲当時、同市の小学三〜六年は学童疎開の対象で、地元に残っていたのは一、二年がほとんどだったと考えられる。「私は空襲の記憶が鮮明な最後の世代だと思う。人も物も生活も奪う戦争を繰り返さないよう、思い出せる限りの体験を後世に残していきたい」と力を込めた。

<横浜大空襲> 1945(昭和20)年5月29日午前9時22分から同10時半にかけ、米軍のB29爆撃機517機とP51戦闘機100機が横浜市中心部上空に飛来。44万個の焼夷弾を投下した。当時の警察発表によると、市内の死者は3649人、負傷者1万197人、行方不明者300人に上った。その後の調査で死者は8000人に達すると推定されている。

 

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