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【暮らし】

<家族のこと話そう>父の画業を広めたかった PRプロデューサー・殿村美樹さん

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 亡くなった父は油絵の画家でした。芸術的な考え方をする人で、ゆで卵を作っていると「卵がかわいそうだと思わないかい?」と言ったり。家にはピアニストや芸術関係の人たちが集まって、サロンのような感じでした。

 地元・京都の新聞社の賞をもらったりして羽振りのいい時期もありましたが、だんだん絵が売れなくなり、母は祇園でホステスとして働き始めました。すると、母は父とは別の男性と親しくなり、夜遅くに帰ってきては父とけんかをするようになりました。私は仲裁に入るため、ずっと起きて帰りを待っていました。

 ある夜、けんかして出ていく母を追い掛けたら「あんたなんかいらん」と、ハイヒールのかかとで顔を蹴られました。その二、三日後でしょうか。家から母の荷物が全部なくなりました。そのとき、私は小学五年。母を信じていたので、すごくつらかった。今でも心の重しになっています。

 父はしばらく気が抜けたようでしたが、油絵だけでなく傘のデザインの仕事をしたり、絵画教室を開いたりして収入を得るようになりました。子どもを養っていかなくてはいけないと、一生懸命やってくれたんだと思います。

 料理も作ってくれましたが、男が厨房(ちゅうぼう)に立つのは恥という時代の人。みそ汁はだしを取らず、みそを溶くだけ。宵っぱりで、私の大学受験の日は寝坊しないようにと徹夜していました。受験に「勝つ」と験を担いで、わが家にはぜいたくなとんかつを買って弁当に入れてくれて。不器用でお金もないけど、優しい人。父の絵は今も自宅や会社に置いています。父そのもので、あったかいんです。

 父はよく「新聞に取り上げてもらったら売れる」と言っていました。私はPR会社で働くようになったとき、「PRの技術を身に付けて頑張るから、準備しといてね」と、個展を開くように頼みました。一生懸命に描く父をずっと見てきたから、父がもっと知ってもらえるようにしたかった。父は「ありがとう」と言って、作品を制作していました。

 でもその矢先、父は肺炎で倒れ、六十八歳でこの世を去りました。家のアトリエには、描きかけの絵がいっぱい残っていました。

 私たちの世界では、「知られない」は「存在しない」と同じこと、と言われます。ホンマだなって思います。だから、努力して頑張っている人たちのことは、ちゃんと知らせないといけない。私は地方をPRする仕事をしていますが、父の絵を世に出せなかった分、「地方で頑張っている人たちのために頑張れ」と、父が言ってくれているような気がします。

 聞き手・河郷丈史/写真・伊藤遼

<とのむら・みき> 1961年、京都府生まれ。大学卒業後、大手広告代理店、PR会社の勤務を経て、92年に「TMオフィス」(大阪市中央区)を設立し社長に。日本漢字能力検定協会の「今年の漢字」を発案したほか、「佐世保バーガー」「ひこにゃん」「うどん県」など、これまでに約3000件の地方のPRを手掛け、ブームを生み出してきた。

 

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