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【暮らし】

<家族のこと話そう>父、兄の「遺産」のおかげ 評論家・樋口恵子さん

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 父(考古学者の柴田常恵(じょうけい)、一八七七〜一九五四年)は、二歳上の兄を偏愛していました。父が五十代で授かった跡取りでしたから、よほどうれしかったのでしょう。

 加えて兄は早熟。教えずとも新聞を読める神童でした。父は個室の書斎を与え、当時勤めていた大学の研究室などにも連れて行きました。「坊(兄)もいずれ洋行しないといけないから、テーブルマナーを学べ」と、帝国ホテルへ連れて行ったりもしました。

 私は常に留守番でしたが、にこにこして、よくしゃべる子でした。お茶の間のアイドルだったと思います。居間や勝手口を居場所に、親戚や近所の人たちの間で確固たる地位を築いていました。

 しかし、兄はそんな私を「恵子の鼻はひっくいらー」と、からかいました。父と兄は鼻筋が通っているのに、私は低い。父母に泣いて訴えても「お兄さまはふざけてるだけ」と、取り合ってくれませんでした。顔へのコンプレックスは成人するまで続きました。

 娘には、兄に言われたような容姿のことは百分の一も言っていません。しかし、五十代後半になった娘は、いまだに覚えています。なんで、もっと「かわいい」と言って育てなかったのか。人間は経験が生かせませんね。子どもはほめて育てるに限ります。

 今になると、当時兄が抱えていた寂しさが分かります。頭がいいだけに独占欲と嫉妬心が強い一方、表に出すことはプライドが許さなかった。友人も少なく、書斎にこもっており、心がふさいでいたのではないでしょうか。

 兄は十五歳の時に結核で亡くなりました。父が顔を覆って「消えてなくなりたいわい」と言った姿を覚えています。直後に東京大空襲があったり、私も高熱を発して結核にかかったりで、悲しむ余裕はありませんでした。一年半寝たきりで、することがなくて、兄の蔵書を乱読しました。カントやプラトンの哲学書、ロシア文学集など幅広く収集しており、今の仕事をする土台になりました。兄が生きていたら、私以上に世の中に何かを残す仕事ができたと思います。

 父が亡くなった年齢を少し超えましたが、今が一番、父から多くをもらっています。父は晩年、お金になる仕事、一銭にもならない話も、差別せず、おろそかにしませんでした。思いを述べられる喜びを感じつつ、仕事をしていました。私も仕事に恵まれていることに感謝し、取り組みたいです。

 父や兄の悪口をたたきましたが、彼らの遺産で私は生きています。家族ってそんなものですよね。

 聞き手・出口有紀/写真・由木直子

<ひぐち・けいこ> 1932年、東京生まれ。東京大文学部卒。時事通信社、キヤノンなど勤務を経て評論家として活動。内閣府男女共同参画会議委員、厚生労働省社会保障審議会委員などを歴任した。NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」理事長、東京家政大女性未来研究所長。最新刊は『その介護離職、おまちなさい』(潮出版社)。

 

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