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【暮らし】

<子どものために シングルマザーから教育者へ> (上)支えられた恩、返したい

生後3カ月の息子と。周囲の協力を得て子育てに励んだ=名古屋市瑞穂区で(服部さん提供)

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 十七歳で出産し、子育てをしながら社会に出た経験を生かそうと、教育者となった女性がいる。元小学校教員の服部秀子さん(34)=名古屋市瑞穂区。小学校では理想と現実のはざまで揺れ続け、自らが求める教育を学ぼうとオランダへの留学も経験した。母親として、教育者として、どう子どもたちと向き合ったらいいのか。理想の教育を模索し続ける女性の姿を追った。 (花井康子)

 服部さんは十七歳になる直前に妊娠した。当時、県立高校の二年生。ファッションに興味があり、パタンナーになろうと、卒業後は東京の専門学校への進学を夢見ていた。

 出産には、両親や学校の先生、友達など周囲の誰もが大反対。だが「おなかの中にいるのは命。一瞬たりとも堕(お)ろそうなんて思わなかった」。進みたい進路にも諦めが付いた。

 熱意が伝わり、相手の男性やその両親の後押しもあって結婚。夫の実家で生活を始めた。電車と自転車で通う全日制から単位制の通信制高校に編入し、勉強しながら家事を覚えた。

 八カ月の早産で男児を出産。出生時の体重は一七〇〇グラムしかなく「若くして産んだからかも」と心配したが、息子はすくすく育った。

 両家の両親らに手伝ってもらいながら、授乳や寝かしつけなど赤ちゃんの世話や家事をこなす生活。当然、自分の時間は制限された。自由を謳歌(おうか)する同級生たちをうらやむ気持ちがなかったとはいえない。だが、何よりも息子の笑顔が元気を与えてくれた。周囲の協力もあり、「子育て生活は楽しい」と感じることができた。「息子はたくさんの人たちにおむつを替えてもらって育った。みんなが手伝ってくれたので、なんとかやれた」と振り返る。

 その一方で、夫とは次第にすれ違うようになっていった。子育てで精いっぱいで、仕事などで悩む夫を思いやる余裕はなかったのだ。「互いに未熟だった」。その後も二人の間にできた溝を埋めることはできず、息子の就学前に離婚した。

 二十三歳でシングルマザーになって実家に戻ると、気持ちは暗転した。「学歴も経験も何のスキルもない。女手一つで育てていけるだろうか」。孤立感を味わい、追い詰められた。表では「若いシングルマザーの子」という偏見から息子を守ろうと、服装や言動に神経をとがらせた。反対を押し切ってでもほしかった子どもなのに、早く出産したことにコンプレックスさえ感じるようになっていた。

 まずは、幼い息子を養わなければならない。卸売市場で野菜の納品書づくり、金融機関の事務仕事、バーテンダー…。早朝から深夜まで仕事を掛け持った。

 あるとき、中学時代の親友たちが手紙をくれた。「どんな道を選んでも応援するよ」。自分を丸ごと受け入れてくれるような内容。自分を支えてくれている周囲の人たちの存在の大きさにあらためて気付いた。孤立感は薄まり、「ほかの何を差し置いても、母親になりたい」と願った当時の気持ちを思い出した。

 仕事の合間を縫って、貧困な子どもを支援する非政府組織(NGO)の活動に参加するように。助けてもらった恩を誰かに返していきたいとの気持ちからだ。活動の中で、労働に駆りだされ、教育の機会さえ与えられない紛争地などの子どもの事情に触れるようになった。「私や息子と同じ地球に生まれたのに」。つらい環境で生きる子どもたちと息子の姿が重なった。「自分に知識やスキルなどがあれば、もっと人を救えるようになるのでは」と思うようになった。

 もう一度、勉強をやり直そうと通信制大学に入学。親に迷惑は掛けられないと息子とともに実家も出た。学ぶうちに、海外支援よりも直接、子どもに関わる仕事がしたいと教職を目指すようになった。

 息子が寝た深夜に睡眠時間を削って勉強し、教員免許を取得。四年半で大学を卒業し、名古屋市内の小学校に講師として採用された。二十八歳になっていた。

 

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