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【暮らし】

<ともに>障害者のアート工房(下) 「社会的価値」を超えて

即席ラーメンの袋を手放さない酒井美穂子さん。酒井さんが通う障害者施設「やまなみ工房」ではラーメンを保管し、アートとして美術館で展示されたこともある=滋賀県甲賀市で

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 滋賀県甲賀市の障害者施設「やまなみ工房」に通う酒井美穂子さん(39)は、袋入りの即席ラーメンを片時も手放さない。それも、あるメーカーのしょうゆ味限定。他のラーメンには見向きもしない。食事中もお風呂に入る時も、袋麺をじっと見つめ両手で握り締めている。

 酒井さんは知的障害がある。子どものころは人懐っこく、「とーちゃん」「かーちゃん」などと言葉を話した。しかし、高校二年生の時、突然ひと言もしゃべらなくなってしまった。学校の先生に叱られたことにショックを受け、心を閉ざしてしまったらしい。

 学校に行きたがらず、家で泣いていたある日、自宅の台所でしょうゆ味の袋麺を見つけ、それ以来手放さなくなった。「硬いラーメンを袋の上から親指でギュッギュッと握りつぶすと、気持ちが落ち着いたみたい」。母親の優美子さん(67)は言う。

 イライラしていると麺をギュッと握りつぶすため、バリバリっと音がする。穏やかな時は手の動きも小さく、シャカシャカと小さな音だ。「ラーメンの音で美穂子の気持ちが分かる」。優美子さんは言う。

 施設に通い始めてからも、酒井さんは毎日、袋麺を手に家を出る。他の利用者たちが絵を描いたり作業をしたりしている中でも、酒井さんは立ったり座ったり、寝転んだり歩いたり、姿勢を変えながら、ずっと袋麺を見つめて握っている。以前、職員が袋を取り上げて絵を描かせようとしたこともあったが、体をよじって嫌がった。

 施設では、約三年前から酒井さんが手にしてきた袋麺を、日付のラベルを付けて保管している。「酒井さんの行為は一見すれば社会的な価値や称賛とは無縁。でも他人の評価がなければ、その人が無用であるわけはない。自分の強い意志で、いちずに表現し続ける行為こそが意味深いと僕は思う」。施設長の山下完和(まさと)さん(51)は保管する理由をそう語る。

作品として展示された酒井美穂子さんのラーメン(はじまりの美術館提供)

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 その酒井さんの袋麺は、アートとして美術館で展示もされた。今年の四〜七月、福島県猪苗代町の「はじまりの美術館」で開かれた展覧会。小さな部屋の壁一面に、酒井さんが握り締めた約八百個が立て掛けて飾られた。施設にいる酒井さんの様子を撮った映像も流された。

 展覧会のタイトルは「無意味、のようなもの」。企画したのは、美術館職員の小林竜也さん(34)だ。美術館は障害者のアートを中心に展示しており、以前からやまなみ工房とは交流があった。普通には理解しがたく、無駄に見える行為を続ける酒井さんと出会って、企画を思い付いた。

 美術館での展示中、見た人からは「表現とは何かを考えさせられた」などの声がある一方で、「障害者に好きなことをさせているだけでいいのか」などの批判的な意見もあったという。

 それでも、小林さんは言う。「やまなみ工房は、酒井さんを異質な存在や問題行動をする人とは見ていない。袋麺を握る行為自体を酒井さんの役割として認めている」。展示した中には、酒井さんが強く握ったために袋が破れ、穴にセロハンテープが貼られたものもある。「ラーメンには酒井さんの痕跡や思いが詰まっていた。それは酒井さんが生きている証しそのもの」

 誰もが自分らしく生きていい−。酒井さんのラーメンは、見る側に不思議な安心感を与えてくれる。 (細川暁子)

 

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