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【暮らし】

<家族のこと話そう>教職の妻 主夫で応援 作家・佐川光晴さん

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 家事育児を中心となって担う主夫になったのは、作家になる十年も前。一九九〇年に埼玉県の大宮にある食肉処理場で作業員として働き始め、厳しい仕事についていくために栄養をしっかり取らなくちゃいけないと、料理をするようになったのが始まりです。三歳上の妻とはその一年前、北海道大を卒業すると同時に結婚していました。

 出会いは卒業の前年、暮らしていた北大の自治寮「恵迪(けいてき)寮」に、当時埼玉の小さな劇団の役者だった妻がやって来たのがきっかけでした。結婚するまでに会ったのは三、四回。だから、料理ができないのも知りませんでした。結婚する、というより一緒に暮らすんだなあ、という感じでした。双方の親戚を招いて披露宴はしたけれど、七年後に長男が生まれるまでは籍を入れていませんでした。

 寮では自治を巡る大学との闘いに全力を注いだし、出版社も一年でけんかして辞めちゃった。牛を解体する仕事を始めたころは、どういう人間になっていくのか自分でも分からなかったし、相当気が立っていたはずです。よく妻は離れていかなかったな、と思います。

 妻は高校まで生徒会長を務める優等生。でも、教育学部で教員免許を取って卒業後、芝居にのめり込んでいました。自分では「先生にはならない」と言っていたけれど、両親ともに教員という家庭で育ったこともあって、どう見ても向いている。当時は「普通に働くなんて」というようなことを言っていたけれど、僕は「そんなことはない。ちゃんと働く方がよっぽど大変なんだ」って。三十歳で教員になり、今も小学校の特別支援学級で教えています。昔は参観日に妻の授業を見に行き、子どもたちの顔もみんな覚えました。

 今は大学生と中学生になった息子たちの子育ては本当に楽しかった。うんとかわいがって育てました。食肉処理場の仕事は午後三時には終わるので、保育園に迎えにいき、ずーっと一緒にいて、してほしいっていうことはみんなした。山のように買ったおもちゃでたっぷり遊んで、抱っこして、プールに行って…。子どもが起きている間は相手をし続けました。猛烈に体力があったんですね。

 僕はいわゆるエリートになりたくなかった。職業に貴賤(きせん)はありません。自分で研いだナイフで牛の皮がうまくむけるようになった時は、本当にうれしかった。悩みながらいろいろな人と出会い、行き着いた仕事の中で、自分で「楽しさ」を見つけられることの方がずっとうれしい。息子たちにはそんなふうに伝えています。

  聞き手・小林由比/写真・淡路久喜

<さがわ・みつはる> 1965年、東京都生まれ。2000年に「生活の設計」で新潮新人賞を受賞しデビュー。「縮んだ愛」で野間文芸新人賞。「おれのおばさん」で坪田譲治文学賞。最新作は「日の出」。エッセーに「主夫になろうよ!」「おいしい育児」などがある。

 

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