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【暮らし】

<家族のこと話そう>戦争を抱え生きた父 ノンフィクション作家・清武英利さん

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 両親と五人きょうだいの家族で、僕は長男でした。決して裕福とはいえない家で、小学生のころは継ぎを当てたズボンをはいていました。当時はどの家も貧しかったからそんなに違和感はなかったけれど、欲しいものを買ってもらう余裕はなかった。

 おやじは戦後、警察官になって、宮崎県警の刑事をしていました。幼いころはおやじの転勤で県内を転々。警察署の前にある官舎に住んだこともあります。同僚の警察官がしょっちゅう遊びに来て、一緒に正月の餅つきをしたり、潮干狩りに行ったり。知り合いから「このままだと非行に走る」と頼まれて、若者二人を預かった時期もあった。おやじは世話好きだからね、すぐ引き受けていました。

 おふくろもめげない人でね。僕の友だちに貧しくて差別されていた子がいたんだけれど、クリスマスにその子にケーキを作って持たせてくれた。「うちはちょっと豊かだからね」って。本当は裕福じゃないんだけれどね。そういう助け合いの気持ちが、昔の人は濃かったんだと思う。

 ただ、僕が高校生のころ、おやじは警察官を辞めて新聞販売店を始めました。理由は言わなかったけど、当時の給料で子ども五人を大学に行かせるのは難しいと思ったのは間違いないと思う。最初は八百部ぐらいしかなかった部数を二千部まで増やして、晩年に僕の弟に譲るまで店を引っ張っていた。でも、人に頼られる警察官の仕事に誇りを持っていたから、未練はあったと思います。

 おやじは十三年前、肺がんを患ったりして亡くなりました。七十八歳でした。戦時中、海軍のパイロットとして夜間戦闘機「月光」に乗っていたみたいだけれど、死ぬまで戦争のことはほとんど口にしなかった。戦友会も一度しか出席しなかったし、軍歌も歌わなかった。戦争回顧のテレビ番組を見ながら、ぽつりと「グラマン(米軍戦闘機)を見たら、おれは戦わずに逃げたよ」って言うぐらい。そう聞いて「情けない」と思った。でも、テレビでやっているような勇ましいものでは決してないという思いがおやじにはあったんじゃないかな。

 それで、おやじの死後、戦友を訪ね歩きました。鹿児島の予科練で訓練を受けて、福岡周辺の部隊で終戦を迎えたことは分かりましたが、戦友の方も亡くなっている人が多くて、それ以上のことは分からなかった。でも、なぜおやじが戦争のことを語ろうとしなかったのか、いまでも気にかけています。あの戦争は繰り返し問わないといけないことだし、おやじは戦後、その傷を心に秘めて生き続けたわけだから。

  聞き手・添田隆典/写真・中西祥子

<きよたけ・ひでとし> 1950年、宮崎県生まれ。75年、読売新聞社入社。読売巨人軍の専務取締役球団代表兼GMを務める。11年、コーチ人事を巡る問題で解任。著書に「しんがり 山一證券 最後の12人」「石つぶて 警視庁 二課刑事の残したもの」(いずれも講談社)など。文芸春秋で「後列のひと」を連載中。

 

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