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【社会】

寒さに震え「老老避難」 私の見た福島事故

 五年前の東京電力福島第一原発事故は、福島の人々の暮らしを突然奪った。すぐに戻れると思い、ほとんど着の身着のままで逃げたが、今なお十万人近くが避難生活を強いられている。人々が直面した過酷な現実を振り返り、あらためて原発事故がもたらす影響の大きさを考える。

 福島県浪江町の舶来(はくらい)重夫さん(72)は大震災の翌日、福島第一原発の十キロ圏外への避難を呼び掛けるパトカーの巡回で、原発の危機を知った。

 車も運転免許もない。妻の幸子さん(70)とリュックに必要最小限のものを詰め、四キロ離れた南相馬市小高区に住む姉夫婦宅へ自転車で向かった。「そこならぎりぎり十キロ圏外。とにかく離れなければ」。急ぐ途中、ボーンという爆発音がし、福島第一のある方角に白煙が立ち上るのが見えた。

 姉夫婦宅には、同じく浪江町から軽トラックで駆けつけた兄夫婦と、兄の娘夫婦が合流し総勢八人に。八十七歳の義兄を筆頭に八十代が四人、一番若い兄の娘でも六十歳。足が不自由だったり、持病の薬がいくつも必要だったりの「老老避難」が始まった。

 トラックの座席に三人、残る五人は荷台に乗り、地震でぼこぼこになった道を八キロ、南相馬市内の避難施設に向かった。ここで二晩、雑魚寝したが、市の職員から「コンクリートの施設でないと放射線を防げない」と告げられ、四キロ北の小学校へ。

 ここも避難者であふれていた。市職員から「可能な人はどんどん車で避難して」と言われたが、一行は「この寒さの中、年寄りが荷台に乗って山越えは無理」と動くに動けなかった。

 その夜、避難者を受け入れるという群馬県東吾妻町からのバスが着き、皆で乗った。すし詰め状態で、悪路は振動も激しい。雪が降り出したがエアコンは故障し、寒さに震えた。体調を悪くした同乗者もおり、舶来さんは「何とか無事に着いて」と祈った。「一人でも力尽きたら、皆が共倒れになる。誰も死なせちゃいけない。いつもそれだけを考えていました」

 東吾妻町の保養所で二カ月間を過ごし、「少しでも地元近くに」と福島県猪苗代町のホテルの避難所に移った。夏になって避難所が閉鎖されることになり、舶来さん夫婦は白河市の借り上げアパートに、姉夫婦ら六人もそれぞれ仮設住宅などへ移った。

 浪江町への帰還が見通せない中、舶来さん夫婦は二〇一四年末、栃木県大田原市に新居を建て、やっと落ち着いた。事故から三年半がたっていた。舶来さんは今、苦しい老老避難を振り返り、こう語る。

 「あの厳しい状況で誰も倒れずに済んだのは、ただの偶然でしかない。あんなことを繰り返さないためにも、事故の教訓を絶対に忘れちゃいけない」 (小倉貞俊)

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