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【社会】

伊藤律 告発の肉筆手記 ゾルゲ事件「スパイ説」冤罪

伊藤律が晩年に書き残した「獄中の遺書」。「私がドイツ人ゾルゲにソ連への情報を渡したというのである」と、特高にゾルゲ事件への関与を疑われた際の驚きをつづっている

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 昭和史に残る国際スパイ事件「ゾルゲ事件」の密告者と言われた、日本共産党の元幹部、伊藤律(一九一三〜八九年)が「獄中の遺書」と題した大量の肉筆手記を残していたことが分かった。事件と自身の関係を順を追って記し、自身が密告者に仕立て上げられた背景には「特高(特別高等警察)のあくどい策謀があった」とスパイ説への反論をつづっている。 

  (森本智之)

 生前の律と親交があり、手記を保管してきた社会運動史研究家の渡部富哉さんは「律本人がこれだけまとまってゾルゲ事件について述べた資料はこれまでなかった」と重要性を指摘している。出版を検討しており、十六日に都内で開くシンポジウムで報告する。

 手記は二百字詰め原稿用紙で約二千五百枚あり、晩年の八三〜八六年にまとめられた。共産主義者としての自身の半生や党の活動を振り返る内容で、ゾルゲ事件については前半の一部に記載がある。

 律は戦時中、治安維持法により壊滅状態にあった共産党の再建運動に取り組み逮捕された。取り調べの中で、旧ソ連の諜報(ちょうほう)員リヒャルト・ゾルゲを頂点とする国際組織のメンバーを密告したとされ、ゾルゲら二人が死刑となった。戦後に党を除名され、滞在先の中国で二十六年の獄中生活を強いられた。

 近年の研究で、この「律=特高のスパイ説」は特高などが主導した冤罪(えんざい)としてほぼ否定されている。

 手記によると、律はゾルゲグループの存在を知らなかった。端緒となったメンバーの女性、北林トモについても会ったことはあったが、名前すら知らなかった。グループの摘発が始まった一九四一年秋になって、特高の取調官から、初めて北林の名前を聞かされた。

 その際、「愛国心から進んで北林トモのことを供述したと書け」と求められ、しかもその供述の日付を事件がまだ発覚していなかった一年前にするよう言われた。そうすることで、律の供述を端緒に摘発が始まったように見せ掛けることができる。グループの主要メンバーには近衛文麿の側近で、律と家族ぐるみの付き合いのあった尾崎秀実(ほつみ)も含まれ、ショックを受けた律は特高のこの要求を受け入れてしまった。

 手記では「いまにして思えば、ここには尚真相不明な当局の策謀があった。が、度を失っていた私はやすやすと敵の罠(わな)にはまった」と悔いている。

 律は日本に帰国してから亡くなるまでの九年間で大量の手記を残しており、これまでにも中国での獄中生活をつづった『伊藤律回想録』(文芸春秋)などを出版している。

 <ゾルゲ事件> 1941年10月に警視庁が摘発した、ソ連による国際スパイ事件。ドイツの新聞特派員として来日したリヒャルト・ゾルゲや、中国通で近衛文麿首相のブレーンだった満鉄嘱託の尾崎秀実らが中心となり、日本の政治や軍事の機密を長期にわたりソ連に報告した。中でも、日本がソ連との戦争を回避し南進するという情報は第2次世界大戦の行方に影響を与えたと言われる。逮捕者は35人にのぼり、ゾルゲと尾崎の2人が死刑になった。組織が巨大で大物も含まれていたことなどから開戦前夜の東京をパニックに陥れた。

 

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