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【社会】

反戦の声もっと 菅原文太さん妻・文子さん

反戦への思いを語る菅原文子さん=名古屋市中区で

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 映画「仁義なき戦い」シリーズなどで知られる俳優の故・菅原文太さんは集団的自衛権の行使容認に異を唱え、反戦運動に力を注いだ。文太さんの死後、集団的自衛権の行使容認を軸とする安全保障関連法が三月に施行された。文太さんの同志でもある妻、文子さん(74)は戦時中や終戦直後の体験を振り返りつつ、反戦の声が広がることを願う。 (聞き手・藤沢有哉)

 小学校の遠足で行った上野公園(東京都台東区)は戦争孤児でいっぱいでした。お弁当を広げると、ばっと寄ってくる。先生はほほ笑んで「分けてあげて」と。戦後しばらくは今と違い、みんな等しく貧しかった。でも、助け合う時代でもあった。

 太平洋戦争が始まった翌年の一九四二年に生まれ、戦中は静岡県の山村に疎開していた。シイタケばかり食べて、防空壕(ごう)に避難する生活。家々には「一億玉砕」などと書いた紙が張ってあった。国は、国民を一くくりにして、ためらいなく戦地へ送った。

 東京・表参道の店主が戦中を語った本には「空爆による黒焦げの死体が二階の高さまで積み上げられた」とあった。大きな穴を掘り、みんなで埋めたが、その場所には今、高層ビルときれいな道路が。これは日本の姿を象徴している。今日の豊かさは、大勢の犠牲の上に築かれたことを忘れてはいけない。

 菅原(文太さん)とは五十年近く、苦楽をともにした。菅原が時代への危機感を強くしたのは、第一次安倍政権の終わりごろ。長く生きた者の勘というか「人を大事にしない時代はおかしい」と、二〇一二年に国民運動グループ「いのちの党」をつくった。

 菅原が反戦を訴えたのは戦争体験があったから。叔父の一人は南方戦線で死に、生き残った父はぼうぜんとした様子で戻ってきた。菅原は「あんな時代は二度とごめんだと思うだけでは、その時代に戻ってしまう。だから声に出さなくては」と。それは権利でもあり、若者を守る義務でもあると感じたのでしょう。

 一四年に集団的自衛権の行使容認が閣議決定された。菅原はテレビを見て「こりゃ、まずいよな」「許せないよな」と怒っていた。仕事で沖縄を訪れるうちに基地問題を目の当たりにし「みんなが沖縄に寄り添ってほしい」と願った。その年の十一月の沖縄県知事選では、米軍普天間(ふてんま)飛行場(同県宜野湾市)の名護市辺野古(へのこ)への移設に反対する候補を応援した。「寄り添う」とは、思うだけではなく、行動に移すこと。菅原はそう考えていた。

 菅原が時代への危機感を抱いたのは、憲法を変える動きが出始めたから。菅原は俳優という立場から注目されたが、世の中には五万、十万人の、無名の「菅原文太」がいると思う。でも、もっと大勢に声を上げてほしい。今の憲法は、戦争犠牲者が血を流して掘ってくれた井戸。安定と平和は、その水を飲んで得てきた。井戸をからしてはいけません。

<すがわら・ふみこ> 東京生まれ。山梨県北杜市で農業生産法人を営み、米軍普天間飛行場の県内移設に反対する「辺野古基金」共同代表を務める。夫の文太さんは、集団的自衛権の行使容認に反対する「戦争をさせない1000人委員会」の呼び掛け人に名を連ねた。夫妻で1998年から10年ほど岐阜県清見村(現高山市)に居住。文太さんは2014年に81歳で死去。文子さんは、15年11月のパリ同時多発テロを受けて本紙の友好紙・琉球新報に寄稿。フランスの悲しみが大きく報道され、空爆下のシリアの実情などがあまり伝えられないことを「私たちは世界の半分しか見えていない」と主張、本紙にも掲載され共感を呼んだ。

 

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