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【社会】

本土初空襲を紙芝居で継ぐ 最初の爆弾落下 荒川の女性制作

紙芝居を見ながら尾久初空襲について話す(右から)三橋とらさん、堀川喜四雄さん、田村正彦さんら=12日、東京都荒川区で

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 太平洋戦争中の一九四二年四月十八日、米軍機が初めて本土を襲った「ドーリットル空襲」の最初の爆弾は、東京都荒川区東尾久(おぐ)に落ちた。地元でも最近まで語られることがなかった「尾久初空襲」から七十五年の今年、荒川の三十代の女性が数少なくなった体験者から話を聞き集め、紙芝居にした。 (石原真樹)

 「東京大空襲のことは学校でさんざん勉強したのに、尾久初空襲は習った覚えがない。地元なのにどうして、と違和感があった」

 荒川で生まれ育った、紙芝居師の三橋とら(本名・優子)さん(33)が話す。きっかけは約二年前。八十七歳の祖父から「米軍機が飛ぶのを家のベランダから見た」と聞き、関心を持った。

 被害が公然と語られるようになったのは、ほんの十年ほど前。国民学校一年生で空襲を体験した元教員、田村正彦さん(81)が語り部の活動を始めた。軍部が空襲の事実を秘匿し、被災者は警察や学校から口をつぐむことを強制され、戦後も沈黙を続けていた。

 「苦しかったと思う。元気なうちに話を聞きたい」。三橋さんは田村さんを訪ね、警察官が残していた記録なども調べ、一年かけて紙芝居「尾久初空襲の記録〜語ることを禁じられた四・一八〜」を作り上げた。「事実を多くの人と共有したい」との思いがこもる。

 紙芝居では、同じ時間帯に起きた出来事を、複数の体験者がそれぞれの視点で語る。三橋さんの祖父は、家で昼食中にプロペラの音を聞いた。ベランダに出ると低空に飛行機が見えた。「演習かな?」。米軍機とは思いも寄らなかった。

 田村さんは突然「ドドーン」という大きな音とともに体を吹き飛ばされた。何が起きたのか分からずにいると、母親が「空襲だ」と頭にアルミ鍋をかぶらせた。後に大人たちから「このことは誰にも言ってはいけない。それが国を愛する人間の節度だ」と言われた。

 国民学校四年生だった堀川喜四雄さん(84)は、大きな音を聞いた直後、すさまじい炎で家が燃えだした。貯金箱と母親のハンドバッグを持って窓から飛び降りて逃げた。

 「…本土空襲を知って日本軍はたいへん慌てました。アメリカ空母を誘い出しミッドウェー海戦を決行。しかし失敗に終わり日本は戦争の主導権を失います…」。紙芝居は尾久初空襲が戦況の転換点となったことを説明した後、「戦争は二度とごめんだ。当時は言えなかった言葉をたくさんの人に聞いてもらいたい」との言葉で終わる。

 空襲があった十八日を前に、田村さんや堀川さんは十五日午後一時半から、荒川区立第七中学校で体験者の話を聞く公開授業を開く。問い合わせは、尾久初空襲を語り継ぐ会=電090(1853)2420=へ。

 <尾久初空襲> 1942年4月18日の米陸軍ドーリットル中佐率いるB25爆撃機16機による空襲では、首都圏のほか名古屋、大阪、神戸など全国で87人が死亡した。最初に爆弾が落とされた現在の荒川区の尾久橋付近では午後0時20分ごろ、爆弾3発と焼夷(しょうい)弾1発が住宅街を襲った。死亡10人、重軽傷48人、家屋の全焼全壊52戸とされる。

 

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