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【社会】

散った若者へ思いはせ 幕末の彰義隊 15日に150回忌法要

上野公園内にある彰義隊の墓の前で話す隊士の子孫、小川潔さん=東京都台東区で

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 幕末、無血開城後の江戸で徹底抗戦を叫び、新政府軍の猛攻撃に半日で敗れた彰義隊(しょうぎたい)。上野公園(東京都台東区)にある墓を、生き残った隊士の子孫が守り続け、十五日に百五十回忌の法要を迎える。墓の由来を知る人も少なくなる中で、大きな歴史の転換期にはかなく散った若者たちに思いをはせてくれるよう、子孫の一人は願っている。 (神谷円香)

 上野公園のシンボル、西郷隆盛像の裏手にある、樹木に囲まれた墓石。彰義隊の文字や隊士の名前はない。生き残った隊士小川興郷(おきさと)が建てた。「戦死之墓」の文字は、興郷と交流のあった剣術家山岡鉄舟の筆による。

 「子どもの頃は夜が怖くてね」。興郷の孫、東京学芸大名誉教授の小川潔さん(70)は、墓の隣にある家で生まれ育った。小川家は代々、墓守として十四年前までここに住んでいた。

 興郷は最後の将軍徳川慶喜が出た一橋家の家臣で、彰義隊結成の中心人物の一人だった。無残な死に方をした仲間への責任から、隊士の遺体が埋葬された上野に墓を建てようと奔走し、一八七四(明治七)年、新政府から許可を得た。

 だが「賊軍」への冷たい視線が苦境を招く。寄付が集まることを見越し七五年に銅製の墓を建てたものの支援は得られず、墓を借金のかたに取られてしまう。墓が荒れ放題になるのを案じた日蓮宗の支援で九年後、現在の墓を再建。興郷は墓の隣に家を構えた。以来、小川家が墓守をしてきた。戦後にできた都市公園法を機に、曖昧な土地の所有権をはっきりさせることが必要になり、都から立ち退きを求められたこともある。住むことは認められたが、土地は都の所有となった。

 潔さんは三十五歳で家を出た。公園の自然を愛し、大学でタンポポを研究しながら、近代史も独自に学んだ。二〇〇三年、墓守を継いだ長兄の彰さんが体調不良で転居し、家はなくなった。自宅内の資料室に展示していた隊士の遺品や資料は、地元台東区に寄贈。一部は潔さんが保管する。

 彰義隊は小説やドラマでさまざまに描かれる。幕府への忠義を貫いた英雄、あるいは動乱に乗じて一旗揚げようとした「烏合(うごう)の衆」とも見なされる。

 潔さんはどちらにもくみしない。「事実だけを知ってほしい。一方的な評価ではなく、一人一人の隊士や関わった人のことを伝えたい。行動を美化も、否定もしたくない」。ただ、新政府軍の指導者だった西郷の像が、墓に背を向けているのには複雑な感情を抱く。

 隊士の子孫という人からは今も問い合わせを受ける。「記録は残しておく必要がある」と、墓と小川家の歴史を書き残す作業を進めている。

<彰義隊> 徳川慶喜の生家、一橋家の家臣らで1868(慶応4)年2月に結成。慶喜の護衛や江戸の警備を掲げ、隊士は2000人を超えたともいわれる。同年5月15日の上野戦争では1000人前後が戦った。最新鋭の大砲を備えた新政府軍の圧倒的な軍勢を相手に、半日で敗戦。戦場の寛永寺はほぼ焼失し、隊士の遺体は野ざらしにされた。後に266体が埋葬され、その場所に墓が建てられた。

 

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