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【社会】

耳に残る「助けて」の声 母子3人犠牲 米軍機墜落40年

和枝さんの遺影と、亡くなった3人をかたどった像を前に「安らかに眠って」と語る土志田隆さん=横浜市青葉区で

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 厚木基地(神奈川県大和市、綾瀬市)を飛び立った米軍機が横浜市青葉区の住宅地に墜落し、母子三人が犠牲になった事故から二十七日で四十年を迎える。「お兄ちゃん助けて」。亡くなった女性の悲痛な叫びを、兄の土志田(どしだ)隆さん(68)=青葉区=は今も忘れられない。「偶然、妹が犠牲になったが、在日米軍を巡る状況は当時から何も変わっていない」と訴える。 (梅野光春)

 一九七七年九月二十七日昼すぎ。土志田さんは知人から「妹さんの家が燃えている」と電話を受け、車で向かった。電車で三駅の近さなのに渋滞で進まない。カーラジオは「ジェット機が墜落した」と臨時ニュースを繰り返す。ようやくたどり着いた妹の和枝さん=当時(26)=宅は焼け落ち、家の前に飛行機のエンジンが落ちていた。

 入院先に駆けつけると、大やけどで全身に包帯を巻かれた和枝さんが「お兄ちゃん助けて」と言う。「大丈夫。心配するな」と返すのが精いっぱいだった。和枝さんの三歳と一歳の息子は翌日、亡くなった。

米軍機が墜落した現場。左奥の家の手前にあった和枝さんの自宅は焼け落ちている=内藤嘉利さん撮影、横浜米軍機墜落事故平和資料センター提供

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 「和枝のやけどは全身の80%に及んだ。皮膚移植の手術を繰り返し、化膿(かのう)を防ぐ消毒液の風呂に漬かる時は『殺して』と叫ぶほど、痛がっていた」と土志田さん。和枝さんは四年四カ月の闘病生活の後、三十一歳で息を引き取った。

 死の三年前の七九年、事故の悲惨さを伝える絵本「パパ ママ バイバイ」が出版された。著者の早乙女勝元さん(85)は「『パパ、ママ、バイバイ』の言葉を残して亡くなった幼子や、手術に耐える和枝さんがふびんだった」と回想。そして「日米安保条約がある限り、いつでも、どこでも起こり得る事故。だから忘れてはいけない」と呼び掛ける。

 事故では、墜落直前にパラシュートで脱出したパイロットが不起訴とされ、刑事責任を問われることはなかった。背景には「在日米軍の公務中の事件の一次裁判権は米国にある」などと定めた日米地位協定があった。

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 「住宅地に軍用機を墜落させ、一般市民が犠牲になったのにおかしい。基地内ならともかく、こうした事故捜査は日本が主導しなければ」。土志田さんは、沖縄など各地での米軍関係の事件事故を聞くたび、憤りを感じる。「四十年たっても地位協定は変わらないし、米軍機はこの辺りを飛ぶ。同じような事故がまた起きてもおかしくない」

<横浜米軍機墜落事故> 1977年9月27日午後1時すぎ、米海軍厚木基地を飛び立った米軍のRF4B偵察機が、横浜市青葉区荏田北(えだきた)=当時の緑区荏田町=の道路に墜落。飛散したジェット燃料に引火して付近の民家が焼け、土志田和枝さんの長男=当時(3つ)、次男=同(1つ)=の2人が死亡、7人が重軽傷を負った。重傷の土志田さんも82年1月に死亡。乗員2人は脱出し無事だった。

 

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