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【社会】

東京パラリンピックあと1000日 唯一の傷痍軍人 不戦の証し

 二〇二〇年の東京パラリンピック開幕まで、二十九日で千日となる。パラリンピックの名称が初めて使われたとされる一九六四年東京大会では、旧陸軍の元兵士で傷痍(しょうい)軍人(戦傷病者)の青野繁夫さん(故人、当時四十三歳)が開会式で選手宣誓した。海外では戦傷病者の選手は珍しくないが、国内では記録に残る限り青野さんが唯一で、パラリンピアンの系譜は、戦後、不戦を貫いてきた日本の姿と重なる。 (加藤行平)

 青野さんは当時、脊髄損傷の戦傷病者らを収容した国立箱根療養所(現国立病院機構箱根病院、神奈川県小田原市)に入所していた。フェンシング団体と競泳あおむけ自由形五十メートルに出場し、ともに銀メダルを獲得。七四年に退所して故郷の静岡県掛川市に戻り、八七年十月、六十六歳で病気で亡くなった。

 召集は、小学校教諭だった一九四一年。中国中部に出征し、四三年五月、揚子江支流を渡河中に腰に機銃掃射を受け負傷。国内に戻って入院し、そのまま終戦を迎えた。戦後に結婚したが、傷の痛みは激しく、五二年に療養所に入り車いす生活となった。

 六四年東京大会の日本人選手五十三人は大半が二十〜三十代前半で、従軍した可能性が大きいのは青野さんら四十代の四人。国立の戦傷病者史料館「しょうけい館」(東京・九段)によると、四人のうち戦傷病者は青野さんだけだった。

 六四年大会の記録にも、他の傷痍軍人が参加した記録はない。以降も、来年三月の韓国・平昌(ピョンチャン)冬季パラリンピックを含め、戦傷病者は青野さん以外にいない。

 青野さんが選手宣誓に選ばれた理由も記録にはない。同館の木龍克己・学芸課長は「戦傷病者の日本選手が青野さん一人だったからこそ、選手宣誓を務めたのではないか」と推測する。

 日本福祉大学スポーツ科学部長の藤田紀昭教授(障害者スポーツ論)は「日本選手の障害の原因は疾患や交通事故などが大半で、戦争で障害を負ったケースはない。戦後七十年以上、戦争に無縁だった歴史を反映している」と話している。

 <パラリンピックの起源> 英国のルートビヒ・グットマン医師が、第2次大戦で脊髄を損傷した兵士のリハビリとして行ったアーチェリー大会が起源とされる。パラリンピックの名称を使用したのは1964年東京大会からだが国際パラリンピック委員会は60年ローマ大会にさかのぼり、第1回としている。

 

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