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【社会】

3.11で家族ら亡くし…一念バッティング場開業 宮城・気仙沼

バッティングセンターができるまでの経緯を話す千葉清英さん

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 東日本大震災の津波で家族ら七人を失いながら、唯一生き残った息子のためにバッティングセンターをゼロから造った男性が、宮城県気仙沼市にいる。牛乳販売店を営む千葉清英さん(48)。野球場に仮設住宅が立つ中、子どもたちが発散する場所になった。その思いに共鳴したプロ野球中日ドラゴンズの山井大介投手(39)が二、三両日に現地を訪れ野球少年たちを指導した。 (海老名徳馬)

 千葉さんは妻の美奈子さんと三人の子、義理の両親ら家族・親類計九人で暮らしていた。地震が襲った二〇一一年三月十一日、小学校に行っていた長男の瑛太さん(16)以外は、自宅兼事務所にいて津波に流された。

 千葉さんは翌日救助され、避難していた瑛太さんとは三日後に再会できた。だが、残る七人は三週間後、変わり果てた姿で見つかった。

 「従業員もその家族もいる」と現地で牛乳販売店を再開。大家族から二人だけになった寂しさを抱えて暮らす中、瑛太さんを連れた出張先でバッティングセンターに立ち寄った。

 リトルリーグで野球をしていた瑛太さん。無心でバットを振る姿が「汗だくで、夢中で、何とも言えなかった」。気仙沼から車で通ったが、片道一時間半もかかる。ある日の帰り、瑛太さんが「遠いね。気仙沼にあったらいいのに」とつぶやいた。かけがえのない場所を見つけた息子のために「造ろう」と決断した。

地元の子どもたちに、バッティングマシンを使って打撃指導する山井大介投手(左端)=2日、宮城県気仙沼市の気仙沼フェニックスバッティングセンターで

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 一人用の簡単な施設を思い描いていた。だが、瑛太さんは「練習が全然できない仲間もいる」とせがんだ。公園や野球場には仮設住宅が並んでいた。息子の言葉に「逃げたら一生後悔する」と奮い立つ。

 資金づくりのためにオリジナルの飲むヨーグルトを発売。二年余りでめどが立ち、一四年三月、開業にこぎ着けた。その名は「気仙沼フェニックス(不死鳥)」。打席数は亡くした家族らの数と同じ七つにした。

 山井投手は同市の児童養護施設に野球道具を寄付した縁で、慰問や野球教室を五年間続ける。地元関係者を通じて昨年、千葉さんを知り、情熱に打たれた。

 二日にはフェニックスを初めて訪れ、野球少年らを指導した。プロ野球選手の指導に、目を輝かせる子どもたち。今春から東京の高校に進学した瑛太さんは不在だったが、千葉さんは「山井さんのようなプロ選手が来てくれて、今後さらに地域のよりどころになれば」と感慨に浸った。

 山井投手は「(ここで)一人でも多くの子どもが野球に親しんでほしい」と目を細めた。

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