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【社会】

真珠湾「悲惨ナル状況」 「蒼龍」搭乗員の日記 熊谷の親類宅で発見

1941年12月8日の島田清守さんの日記の一部

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 一九四一年十二月八日、米ハワイ・真珠湾攻撃に参加した空母「蒼龍(そうりゅう)」の艦上機搭乗員の日記が埼玉県熊谷市の親類宅に残されていたことが七日分かった。開戦当日の戦果は「戦艦六、重巡数隻、飛行機六〇〇余、実ニ大勝」とする一方で、艦上機事故や、帰還しなかった爆撃機や戦闘機もあり「戦斗(闘)ノ悲惨ナル状況ニ始メテ接シタ」と実戦の過酷さもつづっていた。開戦時の状況や兵士の心情が分かる資料となりそうだ。

 九七式艦上攻撃機の電信員だった島田清守(きよし)さんの日記で、予科練卒業後の飛行練習生を終えた同年十月三十一日に始まっている。艦隊が集結した択捉島・単冠(ひとかっぷ)湾での様子、真珠湾攻撃の状況、大分で迎えた十二月三十一日までがA5判用紙に記されていた。

 島田さんは真珠湾攻撃に加わらなかったが、十二月二十二日、太平洋上のウェーク島(現米領)攻撃で初出撃。二十歳だった翌年三月に小笠原(東京都)付近で行方不明となり、戦死認定された。昨年十一月に日記の他、艦内で発行された「蒼龍新聞」も見つかった。

 十二月八日は四ページにわたって記述。午前一時半(現地時間七日午前六時)までに艦長らの訓示があり、攻撃機などが次々と飛び立つ中、戦闘機一機がすぐ海に落ち、搭乗員は付近の駆逐艦に救助された。午前三時半ごろから、次々と無線で報告が入り、「奇襲ニ成功シテハワイ攻撃ガ始マッタ」。同五時すぎには出撃機が戻り始め、艦上攻撃機全十八機が帰還したが、一機は片側の車輪が出ず、海に着水。乗っていた三人が救助された。その後、爆撃機一機も蒼龍の煙突に衝突して海中に落ちたが、搭乗員は救助されたことも含め「三機事故」と記していた。

 ハワイに向かっている十一月三十日は昼食後に蓄音機で音楽を楽しんだ。十二月三日には既に準備が整い、「仕事ガナクテ寝込ンデシマフ」とも。

 十二月二十二日のウェーク島攻撃では米戦闘機に襲撃され、雲の中に避難。ベテラン搭乗員の死に触れたり、「戦斗機ハ矢張恐シク」「三十分ノ空戦、実ニ長ク感ジタ」と感想を記したりしていた。

 島田さんは十二月二十八日に大分・宇佐航空隊に帰還。日記最後の三十一日だけは平仮名交じりで「戦陣(塵)を洗ふ楽しき第一夜」と結んでいた。

◆戦闘機の転落覚えている

<駆逐艦「陽炎(かげろう)」航海長として真珠湾攻撃に参加した元海将補・市来(いちき)俊男さん(98)の話> 真珠湾攻撃の時、陽炎は蒼龍の約1キロ後ろにいたが、艦上機のエンジン音は陽炎まで聞こえた。日記に書かれているように発艦した戦闘機が海に落ちたことも覚えている。陽炎では搭乗員5人を救助したと思う。第1次攻撃隊はまさに奇襲で、魚雷が米戦艦に命中したという報告もあった。だが救助した第2次攻撃隊の搭乗員は「米軍がすぐに対応して対空砲火を猛烈に撃ってきたので目を開けられず、爆弾を命中させられなかった」と言ったのを聞いて、米国はとても侮れる相手ではないと認識した。

 

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