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【社会】

今夏他界 新太郎さんが愛した酒場 哀愁の流し 恋しい年の瀬

東京・四谷の荒木町の酒場でギターを奏でる平塚新太郎さん(右)。奥は弟子のちえさん=平方尚子さん提供

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 忘年会を盛り上げた、あの人はもういない。石畳がかつての花街情緒を伝える東京・四谷の荒木町が、しんみりとした師走を迎えている。今夏、74歳で死去したギター流しの平塚新太郎(本名・桜井忠義)さん。流しの流行が始まった戦後復興期から活動する時代の証人の一人だった。街の人たちが思い出を語り合う。(増井のぞみ)

 「お客さんがいるのに、お手洗いに行っていいのか…。困っていたら、新ちゃんが『僕がいる時に行けばいいよって』。眼光は鋭いけれど、優しかった」

 小料理店「満(まん)まる」女将(おかみ)の平林麗子さん(43)は七年前のことを振り返る。店で働き出したばかりで緊張していた心を、新太郎さんは一言ですっと和ませてくれた。

 新太郎さんは八月十九日未明、肝臓がんで亡くなった。七月に入院するまで荒木町の路地を歩き、ギターをつま弾きながら哀愁の歌声を聞かせていた。

 日米開戦の翌年、新太郎さんは千葉県で生まれた。戦中・戦後の混乱で親とはぐれ、ろくに学校も行けなかった。上野で路上生活を送ったこともある。

 十四歳でギターを手にして、当時、酒場に増えていた流しの仕事を始めた。最初は板橋。後に北海道、広島、九州と全国を渡り歩いた。十五年ほど前、荒木町にたどりついた。

 カラオケの普及で流しは下火になっていた。毎晩のようにこんな曲を歌った。流しの仲間らに作ってもらったオリジナルで、タイトルは「荒木町の新太郎」。

 ♪時代おくれの 商売(あきない)と 人は気軽に 言うけれど おれにはこれしか 能がない 荒木町の 荒木町の おれは新太郎…

 昭和文化を守り続ける姿に脚光があたった。「最後の流し」とテレビや雑誌でしばしば取り上げられ、街の有名人に。レパートリーは三千曲。一夜に十五軒もの店を回り、どんな客のリクエストにも応えた。

 五年前、初めての弟子ができた。名古屋市出身の「歌う漫画家ちえ」こと宮本千愛(ちあい)さん。漫画家として伸び悩みを感じていた頃、新太郎さんに会い「人生を学びたい」と弟子入りした。「よく『人を大事にしなさい』と言われました」

 毎夜、新太郎さんが流しとして出発する店が小料理店「ばんしゃく奈美」だった。女将の平方尚子(ひらかたひさこ)さん(73)が入院に付き添った。新太郎さんは病院でもギターを抱え、毎日、二、三時間の練習を欠かさなかった。医師から「余命一カ月」と聞いたが、最後まで回復しようと頑張る新太郎さんには伝えられなかった。

 身寄りのない新太郎さんの葬式はなく、平方さんら十数人で骨上げをした。二カ月後、平方さんは四十一年続けてきた店を閉めた。「年なので一年前から決めていた。新ちゃんは天国でもギターを弾いているでしょう。そのうち会いに行くまで人生を楽しみたい」

 ちえさんは三味線を手に、これからも荒木町で流しを続けるつもりだ。「師匠が築いた街のコミュニティーを一生、大事にしていきたい」。それが新太郎さんへの最大の供養だと思っている。

 

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