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【社会】

<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (4)教育・行政 近代化の原点

明治維新により、江戸幕府の政庁から天皇家の「宮城」となった現在の皇居=東京都千代田区で、本社ヘリ「あさづる」から

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 −明治維新により、日本は一気に近代化しました。急速な近代化はどのように始まったのでしょう。

 そもそも明治維新とは何か、という点から、もう一度考えてみましょう。達成されたことの一つは、江戸時代の身分制が壊れたこと。世襲制を廃止し、学校で勉強ができる人を官僚や軍人にして国家が運営されるようになりました。もう一つは徳川の「公儀」という武家の政府に替わり、新しく「天皇の政府」を作ったこと。その下で富国強兵、つまり工業化と軍事化を進めた。背景には、他国に植民地化されずに独立を保ち、うまくすれば植民地を持つ側に回る、という政治課題がありました。

 これらの要素で分けて、それぞれ出発点を説明しましょう。つまり、天皇がまつりあげられたのはいつからか、学校や官僚制度が形作られたのはいつごろか。そもそも西洋をモデルに国造りをするという発想はどのようにでてきたのか…。

 最初に全体的なことを言うと、だいたい一七八〇年ごろの「田沼時代(※注)」ぐらいから芽が見られます。司馬遼太郎さんが小説を書かれていたころの一般的な認識と比べると、かなり早くから息吹があったというのが、近年の歴史学の研究成果です。

 まず、天皇を日本の中心にまつりあげるという点では、田沼時代のさらに前から芽がある。一七〇〇年より前、だいたい元禄のころでしょう。水戸光圀の「大日本史」などの中で、日本の中心は天皇であると書かれ、「大陸の中国より自分たちの方が忠義・孝行においては尊いのだ」という考えが、頭をもたげてきます。

 田沼時代になると、浅草でつじ講釈師が、こうした内容を語って、庶民は喜んで聴いていました。将軍様の国ではあるけれど、本来は天皇の国で、これが長く続いているから自分たちの国は世界で一番優れているのだ、という考え方が、しだいに広がっていきます。

 −天皇が中心となる社会を受け入れる思想的な素地ができていたんですね。

 けれど現実には、江戸時代の幕府が無力で使い物にならないという認識がないと、明治維新の方向には変わりません。そのきっかけになったものは二つありました。一番大きなものが外国からの危機、もう一つは飢饉(ききん)のたびに財政力を悪化させていた国内政治。内憂外患、内への憂いと外への患いですね。

 そこで薩摩や長州、肥前藩では何を始めたかというと、自分の藩の学校です。従来、藩学自体がないか、自由登校であったのを、出席を藩士に義務化するところが出てきます。

 長州の場合は、学校の成績を月に数回、藩主に報告し、出世に関わるようにした。肥前などでは、成績が悪いと、親の禄(ろく)を相続する時に大幅に減らされる。そりゃあ必死で勉強しますよ。公職につけるかどうかも、藩校の成績が参考になる。やがて身分によらず、勉強のできる人が尊敬されるようになっていきます。

◇ことば

 ※ 田沼時代…江戸中期、田沼意次(おきつぐ)が十代将軍徳川家治の側用人・老中となって権勢をふるい、大きな影響力を持った時代。

 

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