東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から > 2月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

被爆72年、遺骨帰った 広島の供養塔から家族へ

「原爆供養塔」の前で写真に納まる高橋久さん(中)と大木久美子さん(右)ら=大木さん提供

写真

 広島市中区の平和記念公園にある、引き取り手のない原爆死没者の遺骨を納める「原爆供養塔」から昨年11月、1柱の遺骨が72年ぶりに遺族の元へ帰った。名前が分かりながら、漢字1文字が違ったため返還できずにいた。遺族は「被爆後の混乱の中で作られた名簿には間違いもある。うちが良い前例になれば」と話している。

 遺骨は旧中島本町(現平和公園)で写真館を営んでいた高橋脩(おさむ)さん。原爆が投下された一九四五年八月六日に四十三歳で亡くなり、見つかっていなかった。広島市は供養塔にある約七万柱のうち名前の分かる八百十五人の名簿を公表。高橋さんの下の名前は「修」という字で登録されていた。

 昨年八月、孫の大木久美子さん(59)=東京都江東区=が市に調査を依頼。「修」と書かれていた根拠がなく、大木さんら以外の問い合わせもないこと、被爆死したことが明確なことなどから、市は脩さんと判断した。

 脩さんの長男で、大木さんの父の久さん(89)=広島市西区=は高齢のため状況を理解できない。それでも大木さんは「存命中に引き渡されて良かった。父の代わりに親孝行ができた気持ち」と胸をなで下ろす。

 大木さんによると、久さんは家族四人のうち両親と弟を原爆で亡くし、自分だけは市外にいて助かった。供養塔の名簿は市内に掲示されており、久さんも二十三年前、市に問い合わせたが「表記が違う」と説明された。名簿の「高橋修」という名前を見るたびに「これだと思うんだけどね」と話し、供養塔がお墓代わりと言っていた。

1936年に撮影された家族写真。左端は高橋脩さん、同3人目は久さん=大木さん提供

写真

 名簿には名前以外に、人によっては年齢や住所、死亡場所などが記載されている。市は毎年七月に名簿を載せたポスターを全国の自治体や被爆者団体など約二千カ所に送付しているが、遺族の判明は七年ぶりだった。

 大木さんは脩さんの遺骨の引き渡し以降、一人でも多く遺族の元に戻ってほしいとの思いが強くなった。「名前の一部が一緒といったことでも問い合わせてみてほしい」と話している。

<原爆供養塔> 広島市が、1955年に平和記念公園の慰霊碑北側に建立し、身元不明や引き取り手のない遺骨を納めている。戦後の復興工事中に市内各地から見つかった遺骨も寄せられている。直径16メートルの半円形の盛り土に、塔が立つ。市原爆被害対策部調査課によると、68年から名簿を公開しているが、最近は高齢化から問い合わせは毎年10件程度にとどまっている。名簿は市のホームページで閲覧できる。

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報