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【社会】

<変革の源流 歴史学者・磯田道史さんに聞く> (7)武力に頼る集権国家に

 −維新の後を「明るい時代」とばかりは言えません。

 日本は明治維新で、非常に強い中央集権国家をつくりました。実は、当時の状況を考えると、そんなかたちになる可能性は低かったんです。大政奉還の時点では、土佐藩ほか、ほとんどの藩は、徳川を新政府に参加させることに反対ではなかった。徳川が参加した形でのゆるやかな分権国家でもよかったんですよ。

 ところが西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らは「それは承知ならん」と。徳川は、親藩・譜代・天領という形で全国の三分の一の地域に影響力を及ぼしていました。つぶさなければ、新しい国家はできない、と考えたんですね。

 −徳川を新政府に受け入れたらどうでしょう。

 大名が各地に点在し、幕府の官僚制が、そのまま日本に残ります。海軍ぐらいは統一し、やがてゆっくりと集権国家に向かうにしても、効率はよくなかったはずです。士族も残ったでしょう。西郷らには、それでは江戸時代と変わらない、という不安があった。だから、やはり武力討幕するという考えに至ります。

 結果として、出来上がったのは、「プロイセン型」の師団と参謀本部があり、いつでも侵略戦争ができるような強い中央集権国家でした。

 −明治維新のころ、その後を見据えていた人はいたのでしょうか。

 吉田松陰です。幕末に獄中でつづった思想書「幽囚録(ゆうしゅうろく)」は、日本のたどる道を示した予言の書とも言える内容です。<蝦夷(北海道)の地を開墾して、諸侯を封じ、隙に乗じてカムチャツカ、オホーツクを奪い、琉球を諭して内地の諸侯同様に参勤させ、朝鮮を攻めて質を取って朝貢させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンを収め、漸次進取の勢いを示せ>。さまざまな提言をしています。

 当初は、実際に動員計画があったわけではなく、現実味の薄い内容だったかもしれません。でも松下村塾で松陰に学んだ弟子たちは、頭のどこかに、遺言のようにこびり付いていたのだろうと思います。ここに書かれている思想は、明治以後の外交政策に大きく影響しました。北海道開発、琉球処分(※注)、台湾出兵、日韓併合、満州事変、フィリピン占領と、ほぼ予言の通りに進みました。

 −明治の新政府は、ほかにどんな特徴があったのでしょう。

 政権の核を担ったのは、廃藩置県を断行した薩摩と長州、土佐だけなんです。政府直属の軍隊として、一万人弱の御親兵というのを集めました。けれどその半分は、実は薩摩の兵士です。中身を見れば、革命を進めた「お友達」が集まった政府、という印象が否めないわけです。特定藩の出身者による「お友達政治」のことを、学術的には「有司(ゆうし)専制」と言います。

 この「お友達」すなわち「有司」は、自分たちが決定したことを天皇によって権威づけをし、あたかも天皇の命令であるがごとく実行できる体制をつくりました。新政府で一番問題だったのは、この部分です。

 *磯田道史さんに「明治百五十年」について聞くこのシリーズは、三月以降も掲載します。 

◇ことば

 ※ 琉球処分…明治政府が琉球王国を解体し、日本に併合した一連の政策。1872年に琉球藩を設置、79年には沖縄県とした。琉球の士族を中心に強い反対運動があったが、政府は軍隊と警察を派遣して強行した。

 

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