東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から > 2月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

金子兜太さん死去 戦場の過酷さ、弾圧語り「平和の俳句 一番大事」

いとうせいこうさん(左)とともに、本紙「平和の俳句」の選者を務めた金子兜太さん=2017年7月、東京・内幸町の東京新聞で

写真

 日本を代表する俳人で、本紙「平和の俳句」の選者を務めた金子兜太さんが、九十八年の生涯を閉じた。晩年の金子さんが、最も大切にした仕事が「平和の俳句」だった。戦場の過酷さや戦時下の俳句弾圧を知る「存在者」が、作家いとうせいこうさん(56)とともに情熱を傾けた「軽やかな平和運動」は徐々に大きく広がり、投稿数は三年間で十三万句以上に達した。

 容体悪化の知らせを受けて、二月十八日、熊谷総合病院(埼玉県熊谷市)に金子さんを訪ねた。関東平野の向こうに赤城山が見渡せる個室で、金子さんは静かに横たわっていた。「金子さん、加古が来ましたよ。『平和の俳句』、夏にまたやりましょう」。耳元でそう話すと、「あー、あー」と何度も声が漏れた。

 それから二日。金子さんは逝った。

 「平和の俳句」は二〇一四年の終戦記念日の紙面の対談で、金子さんといとうさんが意気投合したことがきっかけで、戦後七十年の二〇一五年一月一日からスタートした。「平和」を詠む句であれば、季語はなくてもかまわない。そう決めたのは、金子さんだった。毎月三千〜五千余の句が寄せられ、一面に掲載した句は計千六十四句、投稿者は日本全国はもちろん、海外十カ国に及んだ。

 昨年八月で選者を退くまで、金子さんは毎月一回、新幹線で埼玉・熊谷から東京・内幸町の東京新聞にやってきて、選に当たった。口癖のように「おれは『平和の俳句』が一番大事だと思っている」と言い、休憩時間にはよく西太平洋・トラック諸島での戦場体験や故郷の埼玉・秩父の思い出を話した。飾らない人柄の根っこには、平和への人一倍強い思いがあった。

 一六年には、東京と名古屋でライブ選句会を開催。大勢の投稿者の前で、選考風景を再現した。七月に東京で開かれた選句会の日、金子さんは体調が悪そうだった。しかし壇上に上がると、抜群のエンターテイナーとなる。毒舌を交えながら、いとうさんや夏井いつきさんと丁々発止のやりとりをし、会場はたいへんな盛り上がりようだった。

 三年間の「平和の俳句」連載を終えるとき、多くの読者・投稿者から惜別や感謝の声が届いた。その中のいくつかを持ち、昨年十二月十日、いとうさんらと熊谷の自宅に金子さんを訪ねた。金子さんははがきに目を通し、前より少し小さくなった顔でほほ笑んだ。

 最後に自身の「平和の俳句」を寄せてくれた。<東西南北若々しき平和あれよかし 白寿兜太>。「世界平和への尽きない願い、祝福。そして、すべての『平和の俳句』作者、読者へのご挨拶(あいさつ)」(いとうさん)だった。

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報