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【社会】

反戦 尽きぬ情熱 金子兜太さん死去

いとうせいこうさん(左)とともに、本紙「平和の俳句」の選者を務め、毎月の選考会に臨んだ金子兜太さん=2016年1月、東京・内幸町の東京新聞で

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 二十日に亡くなった日本を代表する俳人・金子兜太(とうた)さんが晩年に最も大切にした仕事が本紙の「平和の俳句」だ。盟友の作家いとうせいこうさん(56)とともにこの「軽やかな平和運動」に情熱を傾けた背景には、自ら知る戦場の過酷さや戦時下の俳句弾圧があった。生涯をかけて平和を求めた「存在者」の死に、投句者から悼む声が相次いだ。(加古陽治、花井勝規)

 埼玉県熊谷市の自宅には早朝から俳人仲間や弟子らが相次いで弔問に訪れた。長男の真土(まつち)さん(69)によると、金子さんは今月六日に誤嚥(ごえん)性肺炎のため緊急入院。二十日深夜、真土さんと知佳子さん(66)夫妻らにみとられ、大きく息を吸うようにして逝った。

 六日の入院前、寒けを訴える金子さんに、真土さんが「おやじ、息苦しいんじゃないの」と尋ね、「いやあ、ぜいぜいというのはオレの癖だ」と返したのが最期の会話になった。

 生前「今の社会は戦争へのアレルギーをなくしてしまっている。勇ましさを支持する人が増えている」と憂えていたという。

 金子さんが選者を務めた「平和の俳句」は二〇一四年の終戦記念日の紙面の対談で、金子さんといとうさんが意気投合したことがきっかけで、戦後七十年の二〇一五年一月一日からスタートした。三年間に十三万句以上が寄せられ、一面の掲載句は千六十四句、投稿者は日本全国はもちろん海外十カ国に及んだ。

 選考の場で金子さんは、口癖のように「おれは『平和の俳句』が一番大事だと思っている」と言い、休憩時間や対談で、よく西太平洋・トラック諸島での経験を語った。「目の前で手が吹っ飛んだり背中に穴があいて死んでいく」「いかついやつがだんだんやせ細って仏様みたいに死んでいく」。そうした戦場体験が戦後の生き方を決めた。

 「たくさんの存在者が惨めに死んでいった。だから反戦のことを繰り返し説きまくっていきたい。それは絶対基本です」と。

 ノンフィクション作家沢地久枝さん(87)の求めに応じ「アベ政治を許さない」と揮毫(きごう)したのも、現政権下で平和が脅かされているとの危機感からだった。

 三年間の「平和の俳句」連載を終えるとき、多くの読者・投稿者から惜別や感謝の声が届いた。その中のいくつかを持ち、昨年十二月十日、いとうさんらと熊谷の自宅に金子さんを訪ねた。金子さんははがきに目を通し、前より少し小さくなった顔でほほ笑んだ。

 最後に自身の「平和の俳句」を寄せてくれた。<東西南北若々しき平和あれよかし 白寿兜太>。「世界平和への尽きない願い、祝福。そして、すべての『平和の俳句』作者、読者へのご挨拶(あいさつ)」(いとうさん)だった。

◆平和の俳句「思い消さぬよう努力」投句者 悼む声

 「平和の俳句」の投句者たちも金子さんを悼んだ。

 東京都杉並区の元新聞記者・漆原淳俊(うるしばらあつとし)さん(71)は、<捕虜刺殺拒みし伯父の逝きて冬>が金子さんに選ばれた。中国戦線で捕虜の刺殺を拒み、その経験を多くの短歌に残した義理の伯父を通し、反戦を訴えた。

 「投句はがきに書いた伯父のことも評に書いてくれ、とてもうれしく、ありがたかった」と振り返る。

 戦後七十年だった二〇一五年末には「平和・協同ジャーナリスト基金賞」の選考委員の一人として「平和の俳句」を推薦したところ、大賞に選ばれた。「新聞と読者がともに平和をつくる歩みはこれまでになかった」と話す。

 フリー編集者・並木孝信さん(83)=神奈川県厚木市=は<もう渡るまい大東亜といふ虹の橋><赤子の掌(て)ふっくらぱあと平和咲く>が、金子さんに選ばれた。

 「残念です。もう一度、どこかで先生に句をみてほしかったです。それは、投稿者たちの偽らざる思いではないでしょうか」

 <人集ひ花野のごとく平和問ふ>などが選ばれた無職進藤ユミコさん(69)=埼玉県狭山市=は、「入選したのは優しい俳句だった」と話す。「金子さんは芯の通った平和への思いを貫いた。その思いを消さないよう、一歩ずつ努力していきたい」と誓っていた。

 

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