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【社会】

<対談「薩長史観」を超えて>(3)天皇 大元帥兼ねるのは危険 「元首」案は明治と同じ

半藤さん

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 −明治憲法<注1>下の天皇の位置付けは?

 半藤一利さん 西南戦争が終わってから新しい国づくりを始めたときに、プロシア(ドイツ)かぶれの山県有朋<注2>や周りを囲んでいた優秀な官僚が軍事国家体制をつくります。明治憲法が発布される明治二十二(一八八九)年より十年も先にです。歴史に「もし」はありませんが、大久保利通<注3>が暗殺されていなければ、こうはならなかったと思います。英仏米などを歴訪し、軍事を政治の統制下に置く、今で言うシビリアンコントロールを学んでいましたから。憲法が制定される前から、日本は軍事国家として歩き出していたんですね。

 だから、憲法の中心に天皇を置くのと同じように、軍事のトップに大元帥<注4>としての天皇を置いたわけです。明治憲法で天皇と軍事を扱う項目は大ざっぱにいうと二つだけです。「天皇は陸海軍を統帥する」「陸海軍の編成と予算を決定する」。大元帥陛下をトップに立て、一方に憲法の定めるところの内政と外交を主に見る天皇陛下がいる。天皇と大元帥の二つが一つの人格の中にあった、と考えると非常に分かりやすい。

 −来年四月末に天皇陛下が退位し、明治以降、四つ目の元号である平成も終わりを迎えます。

◆平成は政治と災害

 保阪正康さん 平成のキーワードは「天皇」と「政治」と「災害」だと思っています。五五年体制が崩壊し、衆院に小選挙区比例代表並立制が導入され、阪神大震災が平成七(一九九五)年に起きました。今の陛下は二つの側面を持っています。戦没者の追悼と慰霊という公的行為は昭和の清算。もうひとつは象徴天皇という形を何のサンプルもない中でつくったことです。

 半藤 昭和天皇は幼少期から軍人教育を受け、十一歳で陸海軍少尉になった。軍人なんですよ、根は。四十四歳の時に戦争に負けて象徴天皇になったといっても、どういう天皇であるべきかは残念ながらなかなか理解できなかったと思います。

保阪さん

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◆国民の痛み理解

 それを受けた現在の天皇陛下は、私より三歳下ですが、十一歳の時に戦争に負けて自分の戦争体験はなくても、国民がいかに悲惨な目に遭ったかをよく知っているんです。象徴天皇とは何かを、おやじさんから教えを受けたわけではないんです。皇后さまとともに真剣に考えてつくりあげていったと思うんですね。

 かなり歴史を勉強されている方ですから、軍事国家の大元帥、ならびに天皇というのは、どうにでも使われちゃうから危険だということを分かっていると思います。自分は国民統合のために一番良いと思う象徴天皇の形をつくった。これを何とか残し、次の時代も続けることが、皇統を守るためにも一番良い、元気なうちに皇太子さまに譲って、それを見届けたいというのが、今度の退位の動機でしょう。

 保阪 自民党の改憲草案は、天皇を元首と位置づけています。天皇自身の意思を考えず、政治家の都合のいいように扱っていいのか。山県や伊藤博文がやった明治憲法と同じじゃないかと指摘できます。意思なんか持つな、存在するだけで良い、というなら、それはそれで論理は成り立つけど、天皇陛下は「それは嫌だ」と二〇一六年八月のビデオメッセージで明かしたわけだから、根本にあるものは黙視できる問題ではありません。

■注1 明治憲法 大日本帝国憲法。1889(明治22)年、伊藤博文らによって起草された。ドイツ・プロシアの立憲君主制を範とした。天皇を神聖不可侵な元首で統治権の総攬(そうらん)者と位置づけ、陸海軍の統帥や宣戦、講和などの大権を有した。1947年、新憲法の施行に伴い効力は消滅した。

■注2 山県有朋 1838〜1922年。幕末〜大正期の軍人、政治家。長州出身で、松下村塾に学ぶ。維新後は西欧の軍制を学び徴兵制の導入に尽力。天皇制の下での軍人の心構えを説いた「軍人勅諭」を起草させた。首相辞任後も元老として大きな影響力を持った。

■注3 大久保利通 1830〜78年。薩摩出身。西郷隆盛とともに討幕運動の指導者となり、新政府では全国の藩が所有していた土地と人民を朝廷に返還する版籍奉還などを主導し中央集権体制を構築した。77年には西南戦争を鎮圧したが、批判的な士族に暗殺された。

■注4 大元帥 明治憲法下で陸海軍の統帥者としての天皇。

 

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