東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 社会 > 紙面から > 3月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【社会】

旧校舎保存 いち早く訴え 大川小生存者の1人、18歳の覚悟

被災した大川小の校舎前で語り部活動をする只野哲也さん=宮城県石巻市で

写真

 宮城県石巻市の大川小学校では、児童七十四人、教職員十人が津波の犠牲になった。当時小学五年だった只野哲也さん(18)は校庭からの避難中に津波に流され、生き残った四人の児童のうちの一人。大川小の旧校舎を残してほしいと声を上げ、高校卒業を控えた昨年末からは語り部活動を始めた。「死ぬまでずっと伝えていく」。それが生きている自分の責任だと思っている。 (小沢慧一)

 「七十四人って簡単に言うけど、一人一人に未来があった。大切なかけがえのないものを奪われたという気持ちで、自分も生きていかなきゃいけない」。大きな背中を丸め、校舎を見つめる。

 あの日、列になって校庭から避難する途中「ゴーッ」という地鳴りが響いた。津波にのまれた民家が爆発したように砕け散り、土煙が上がった。

 「やばい」。裏山の急斜面に逃げた。指を地面に突き刺し必死で登った。後ろを振り向くと波は見えなかった。「助かる」。再び前を向いた瞬間、背中に何人もがのしかかったような圧力がかかり、気を失った。

 妹の未捺(みな)さん=当時(9つ)、母しろえさん=同(41)、祖父弘さん=同(67)=を津波で失った。みんな家族みたいな地域の中で、友達の葬儀が何十回も続き、泣き崩れる遺族の姿を見た。

 中学二年の時、旧校舎を震災遺構として残すかどうかの議論の場でいち早く保存を訴えた。がれきや松の木、車を巻き込んだ泥の塊が猛烈な勢いで押し寄せ、鉄骨がむき出しになった校舎。目にするのも、思い出すのもつらい。解体を訴える周囲の反応は怖かったが「残さなきゃ。伝えないと」と覚悟を決めていた。

 はじめて語り部活動をしたのは昨年十二月。児童の遺族らでつくる会に誘われた。

 見学に来た高校生から「自分が先生だったら、ちゃんと誘導できたか」と尋ねられた。「判断できなかったと思う」。一瞬たじろいだが、素直に言葉が出た。「災害は避けて通れない。だからこそ、その土地に合った避難方法を考え、訓練することが必要」と今は思える。

 四月からは県内の大学で機械工学を学び、しばらくは語り部を休む。ただ、震災を知らない次の世代につないでいけるのは、若い自分しかいないと思う。

 一輪車や鬼ごっこ、キックベースに夢中な仲間たちが跳ね回った休み時間の校庭。友達とふざけ合って先生によく怒られた。楽しい思い出がよみがえるたびに、強く思う。「何げない瞬間がどれだけ大切か、なくす前に気付いてほしい。そのことを伝えたい」

写真

<大川小学校の津波被害> 地震で津波が近くの北上川を遡上(そじょう)し、児童と教職員計84人が犠牲になった。大川小は4月から市内の別の小学校と統合。津波で破壊された旧校舎は震災遺構として保存される。地震後、教諭の指示で児童を校庭に待機させたことが適切だったかどうかなどを争った裁判で、仙台地裁は学校側の過失を認め、石巻市と宮城県に賠償を命じたが双方が控訴。高裁判決は4月26日の予定。

 

この記事を印刷する

東京新聞の購読はこちら 【1週間ためしよみ】 【電子版】 【電子版学割】

PR情報