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【社会】

偉業 2215試合連続出場 衣笠祥雄さん死去 骨折中も休まず

連続試合出場世界記録を達成し、「2131」を記した花輪を手に観客の祝福に応える衣笠祥雄さん=1987年6月、広島市民球場で

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 やんちゃな時代を経て国民栄誉賞へ。二十三日に死去した衣笠祥雄(きぬがささちお)さんの野球人生はドラマを見るようである。一九七〇年、プロ野球広島の打撃コーチに就いた関根潤三さんは、根本陸夫監督から「球界を代表する打者に育ててくれ」と衣笠さんを任せられた。中古の米国車を乗り回して青春を楽しんでいた衣笠さんの生活が一変した。

 運転免許証を球団に取り上げられ、合宿所での素振りが日課となった。五百回、六百回どころの話ではなかった。ある時サボって夜の街に繰り出した。日付が変わって合宿所に戻ると、関根コーチが待っていて静かな口調で一言。「さあ振ろうか」

 衣笠さんが野球に真正面から取り組んだきっかけがある。広島市から近い山口県の岩国基地の若い米兵がベトナム戦争に向かうという話を知った時、好きな野球で生活ができる自分の幸せを思い知った。後に「目覚めた」と語っている。

 七五年に就任したジョー・ルーツ監督の存在も大きかった。「うちには長嶋(巨人)を超える三塁手がいる」と一塁から三塁にコンバートした。同年途中、ルーツ監督を引き継いだ古葉竹識(たけし)監督の下で初のリーグ優勝。衣笠さんは同僚の山本浩二さんとともに“赤ヘル軍団”の象徴となった。この年はオールスター戦で二人そろって二打席連続ホームランを放った。赤色の時代到来を示す強烈なシーンだった。

 「鉄人」がニックネーム。二千二百十五試合連続出場のプロ野球記録がそれを決定付けた。肩甲骨を骨折した時も休むことなく出続けた。忘れてならないのは、打てないのを承知で起用した古葉監督のおとこ気だった。

 理解者が近くにおり、その思いに応えた。それが「鉄人の国民栄誉賞」につながったといえる。惜しむらくは一度も監督として采配を振ることなく人生を終えたことである。指揮官としてグラウンドに立った姿を想像すると、間違いなく絵になる男だったろう。 (共同通信社友・菅谷斉)

 

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