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【社会】

グアム戦の記憶たどる164枚 93歳、絵画集出版

グアムでの戦争体験を描いた小林喜一さんの絵画集を作ったメンバー。右から3人目が内藤寿美子さん=東京都渋谷区で

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 太平洋戦争末期の一九四四年、グアム島の激戦で九死に一生を得た元日本兵小林喜一さん(93)=長野県在住=が、記憶をたどって描いた絵百六十四枚が絵画集「南の島に眠る戦友へ」になった。戦死者の遺族や、グアム島から七二年に帰国して話題となった故横井庄一さんの親族らが製本化に尽力。わずか二十日間で二万人が戦死した玉砕戦を生々しく伝えている。 (梅村武史)

 軍刀だけで米軍の戦車に挑み、流血して倒れる多数の日本兵−。絵画集の表紙に使われた絵だ。「突撃! 佐々木兵曹と俺が助かったのみで全員殺された。玉砕だ!」と小林さんのコメントが付く。

 絵画集は色鉛筆と水彩の素朴なタッチ。当時、十九歳だった小林さんらが、グアム島の南端から北端に追い詰められていく様子を時系列に並べている。

 ジャングルをさまよう描写が続き、仲間が次々に戦死していく。米軍に待ち伏せされて背中から撃たれる同僚や、手榴弾(しゅりゅうだん)で自決する仲間の姿も。

 小林さんの長女喜美子さんによると、小林さんは長野県に生まれた。十八歳だった一九四三年五月に横須賀海兵団に入団し、四四年四月にグアム島入り。八月の島陥落後も一年近くジャングルに潜んで米軍と対峙(たいじ)し、飢えにも耐え抜いた。

 戦後、長野県職員となった小林さんは、休日になると亡き戦友宅を訪ね歩いた。仏壇に手を合わせるためだが、「何であんたは生きているんだ」と遺族から怒鳴られることもあった。絵を描き始めたのは約三十年前、六十歳を過ぎてから。取りつかれたように紙に向かい、完成したのは二百枚近くになる。

 現在は認知症を患い、記憶が薄れつつある。それでも、校正段階の絵画集が届いた時には「俺のグアムだ」と抱き締め、涙ぐんだという。

 自費出版を発案したのは、父親をグアム島戦で亡くした遺族の内藤寿美子さん(77)=東京都北区。遺骨収集活動や遺族会の人脈を通して、二〇〇八年に小林さんの絵を知った。遺骨収集活動の仲間や家族、横井庄一さんの妻美保子さん(90)ら七人が中心となり、完成までに一年を費やした。

指揮官から「生きて俘虜(ふりょ)の辱めを受けるより、死んで護国の華と散れ」と訓示があった様子=「南の島に眠る戦友へ」から

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 遺族会や戦闘体験者から「当時の惨状をよく伝えている」「内容に誇張がない」と評価され、史料としての価値も高い。内藤さんは「戦争は嫌だ、という小林さんの気持ちを感じてほしい」と願う。

 絵画集はA4判で百一ページ。名古屋市中川区の横井庄一記念館(日曜のみ開館、入館無料)で一部千円で頒布中。郵送でも購入可能。問い合わせは、内藤さん=電03(3905)0880=か、メール=heiwa20180401@gmail.com=へ。

<グアム島> 太平洋マリアナ諸島南端の島で、大きさは淡路島ほど。太平洋戦争前は米国が統治したが、開戦直後の1941年12月から日本が占領し、「大宮島(おおみやじま)」と名付けた。日本が占領を維持すべき「絶対国防圏」の最前線とされたが、44年7月、米軍が大規模な攻撃を開始。艦砲射撃と空爆を徹底的に行った後、上陸し、それから約20日間で日本軍は壊滅した。厚生労働省によると、日本の戦死者は約2万人。米軍はその後、日本本土を襲う戦略爆撃機B29の発着拠点とした。遺骨収集は現在も続くが、公式の帰国遺骨数は503柱のみ。

 

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