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【社会】

<もうひとつの沖縄戦>(1)18歳の捕虜 ハワイへ 猛暑の船底 裸で移送

1945年6月27日、船着き場に向かう捕虜たち=沖縄県平和祈念資料館提供

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 太平洋戦争末期に日米合わせて約二十万人が死亡した沖縄戦から七十三年。沖縄の人々は本土防衛の捨て石とされただけでなく、三千人以上の男たちが捕虜として米国ハワイに移送され、終戦後も収容されつづけた。少なくなった元捕虜たちは、もうひとつの「沖縄戦」を語り継ごうとしている。 (編集委員・佐藤直子)

 捕虜を乗せた米軍の上陸用舟艇は、嘉手納(かでな)沖に停泊した大型輸送船の脇腹につけるように止まった。二十メートルほど上方の甲板から縄ばしごが下ろされる。「カモン(上がれ)」。船上から米兵が手招きした。捕虜たちは戦闘で弱った体にむち打って上った。

 一九四五年六月下旬。米軍との戦いで焦土となった沖縄本島から、戦場で捕虜となった沖縄の兵士らを乗せた船が出航した。

 当時十八歳だった元嘉手納町議の渡口彦信(とぐちひこしん)さん(91)は船内で全裸にされ、米兵に海水のシャワーを浴びせられた。あとは下着一枚配られない。閉じ込められたのは、荷を積む船底だった。「殺される」と恐怖に震えた。

 旧制県立農林学校の卒業を目前にした四五年二月、渡口さんは徴兵検査に二年繰り上げて合格。那覇市内に駐屯していた球二一七二野戦高射砲隊に入隊し、初年兵教育もないまま戦場に出た。

嘉手納の海辺で73年前を振り返る渡口彦信さん=沖縄県嘉手納町で(佐藤直子撮影)

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 四月一日に米軍が沖縄本島に上陸し地上戦が始まると弾薬運びなどをしたが、米軍に制空権を握られて昼間は高射砲を撃てない。砲台に草木をかぶせて壕(ごう)に隠れ、夜になると敵の陣地を攻撃した。弾も食料も睡眠も足りない。「大和魂だけで踏ん張っていた」と渡口さん。百五十人余いた中隊はやがて三十人ほどに。那覇から南へ撤退し、糸満市摩文仁(まぶに)の海岸に隠れていたところを捕まった。

 米軍トラックに詰め込まれ、捕虜を集めた屋嘉(やか)収容所に向かった。数日後には故郷の嘉手納に移動。そこでは集められた捕虜が列をつくり輸送船に乗せられていた。渡口さんも家族の安否も分からぬまま乗せられた。同じ船に当時十五歳の古堅実吉(ふるげんさねよし)さん(88)がいた。鉄血勤皇隊と呼ばれる学生部隊の一人だった。

 何十人もの捕虜が押し込まれた暗い船底は窓もない。明かりは裸電球が一つ。猛烈な暑さで人いきれが激しかった。「食事のときも皿一枚配られない。手のひらに飯を盛り、おかずをのせる。顔をうずめて獣のように食べるんです」。そんな扱いが古堅さんには耐えがたかった。誰もが疲れ切って無口だった。一日二回の食事で日にちを数えた。

 用便も人目のある所でバケツにした。汚物処理のため、輪番でバケツを甲板に上げる一瞬だけ、新鮮な空気に触れることができた。

 行き先も分からぬまま、ある日、甲板に出た渡口さんは遠くに島をみた。「あそこは」と監視の日系米兵に尋ねた。「こちらサイパン。あちらはテニアン」。指さす方に日米の激戦地となった島が見えた。

 捕虜を乗せた船は南東へと進んでいた。三週間ほど過ぎたころ、米兵が「上陸だ」と知らせに来た。到着したのはハワイだった。

 

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