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【社会】

<もうひとつの沖縄戦>(2)「地獄谷」と呼ぶ収容所

ハワイのホノウリウリ強制収容所。木造のバラックとテントがあり、沖縄県民の捕虜たちはテントに収容されていた=ハワイ日本文化センター提供

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 一九四五年七月、沖縄戦での日本人捕虜を乗せた輸送船は、米国ハワイのパールハーバー(真珠湾)に入った。州都ホノルルを擁するオアフ島の南側に位置するこの軍港は、四一年十二月八日未明に日本海軍が奇襲攻撃を仕掛けた因縁の地だ。船から下ろされた捕虜がトラックで連れて行かれたのは、島の中西部にあるホノウリウリ収容所だった。

 山中の約六十五ヘクタールの荒れ地を切り開き、四三年に建設されたハワイ最大規模の強制収容所。鉄条網に囲まれてバラックやテントが並ぶ。雨が降ると赤土がぬかるみ、猛烈な暑さと大量の蚊が捕虜たちを悩ませた。「地獄谷」と呼ばれていた。

 収容所では大きな袋が一人ずつに配られた。中には靴や靴下、せっけん、歯磨き粉、食器、コップなどの生活用品が入っていた。

渡口彦信さん=佐藤直子撮影

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 ハワイに上陸する直前、捕虜たちに配られた上着とズボンを脱ぎ、胸や背中、ズボンの太もも部分に「PW」とペンキで書かれた服に着替えた。「Prisoner of War(戦争捕虜)」を意味する屈辱的な印だった。

 捕虜たちはホノウリウリで、ただ食べて寝て、衰弱した体を休めた。十八歳の渡口彦信(とぐちひこしん)さん(91)が労働を命じられたのは、ハワイに来て一カ月が過ぎたころ、ホノルル湾入り口のサンド島の収容所に移されてからだ。

 軍の洗濯工場での軍服の整理や、米軍将校宅の庭の草刈り、ごみ集めなどが割り当てられた。労働は一日八時間。監視の米兵が捕虜に暴力を振るうことはなかったが、銃を手に「ジャップ」と呼び、敵意をむき出しにする監視兵もいて怖かった。

 「生きて虜囚の辱めを受けず」と教え込まれた皇軍兵士が敵国のために働かされる。渡口さんはその悔しさを忘れない。「故郷や家族のことばかり考えてね。働いても米国のためだと思うと苦しかった…」

 真珠湾攻撃はハワイの日系人社会にも暗い影を落としていた。ホノウリウリ収容所には沖縄からの捕虜だけでなく、米国籍の日系一世や二世らが数百人も収容されていた。生活の活路を求めてハワイに移住した日系人の人口は、四〇年に全州の37%を占めていた。

 このうち、宗教者や教師、経済人ら影響力のある人たちは米国政府より日本に忠誠を誓う者たちとみなされて隔離を強いられた。有力者を失った日系社会は弱体化していった。 (編集委員・佐藤直子)

 

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