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【社会】

原爆詩人・峠三吉 晩年の便り 暗い世の中ですがお互いに頑張りませう

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 原爆詩人として知られる峠三吉(一九一七〜五三年)が晩年、文学仲間に宛てた手紙二通が見つかったことが三十日、分かった。「広島文学資料保全の会」が峠の遺族から譲り受けた資料群の中にあった。病と闘いながら、詩の活動に打ち込んでいた様子が浮かび上がる。

 手紙は、愛媛県の病院で放射線技師をしていた文学仲間の故坪田正夫氏に、峠が中心となって反戦詩を集めたサークル誌「われらの詩(うた)」と一緒に送ったもの。いずれも手のひらほどの大きさで、原稿用紙などの紙切れに文字がびっしりと書き込まれている。

 一通目は文面から五〇年十二月〜五一年三月に書かれたとみられ、近況を「小生手術をする予定なのですが未だしていないので現在は元気でいます」と説明。「われらの詩」の読者を患者に広げてほしいと依頼している。五〇年に始まった朝鮮戦争で核兵器の使用が現実味を帯びる中、「暗い世の中ですがお互いに頑張りませう」と結んでいる。

峠三吉が坪田正夫氏に宛てた手紙。右が1950年12月〜51年3月、左は52年9月以降に書かれたとみられる

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 峠は五二年三月、上京中に吐血。同年九月以降のものとみられる二通目の手紙では、肺の病状について「空洞の状況は変化ないそうです。手術はやはり少しづつすすめられています」としたためた。

 病状は悪化し、広島の病院で五三年三月十日、肺の手術中に息を引き取った。資料群の中には、仲間を代表して手術に立ち会った坪田氏がその様子を書いた手帳も。包帯を歯でかみ、カテーテルを喉に入れられた峠の姿を、麻酔や輸血の経過と共に詳述している。

 「おれたちの峠三吉よ 頑張れ 頑張れ 死ぬるな 生きろ 生きるんだ 大衆は待っている」とも記し、「にんげんをかえせ」で知られる峠の代表作「原爆詩集」の一部もつづっている。

 同会の幹事相原由美さん(79)は「個人的な手紙の発見はとても珍しい。詩を通じた仲間づくりを大切にしていたのがよく分かる」と話した。

<峠三吉> 1917年に大阪で生まれ、その後広島へ。旧県立広島商業学校に在籍中、作詩を始めた。幼いころから病弱で発熱や喀血(かっけつ)を繰り返す。28歳の時、爆心地から約3キロで被爆した。戦後は詩を通じて反戦を訴えるなど平和運動の先頭に立ち、51年に「原爆詩集」を発行。「ちちをかえせ ははをかえせ (中略) わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ」とつづった「序」が反響を呼び、歌にもなった。被爆者団体の結成にも奔走。53年、肺葉の切除手術中に亡くなった。広島原爆資料館の北側に詩碑が設置されている。

 

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