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【社会】

<オウム事件死刑執行 妄想の果てに> (上)埋葬どこに、神格化警戒

コラージュ。上から、麻原死刑囚らの刑が執行された6日の東京拘置所、地下鉄サリン事件で手当てを受ける乗客ら(1995年)、絶頂期に会見する麻原死刑囚(90年)

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 「麻原死刑囚ら七人の死刑を執行しました」。六日午前九時四十五分ごろ、地下鉄サリン事件で夫を亡くした高橋シズヱさん(71)の自宅に、法務省刑事局参事官から電話が入った。

 「事件を最後まで見届けたい」との思いから、死刑囚への面会や執行への立ち会いを求めていた高橋さん。七人同時の執行という知らせに、動悸(どうき)を感じた。その後、東京都内で開いた記者会見で「事件を直接知らない若い世代に麻原死刑囚について説明するとしたら」と聞かれると、「オウム真理教という団体で日本を征服しようとし、すべての事件を指示した人物。死刑が当然」と淡々と語った。

 麻原彰晃(しょうこう)死刑囚(63)=本名・松本智津夫(ちづお)=は一九五五年三月、熊本県金剛村(現・八代市)で生まれ、県立盲学校を卒業した。八四年に教団の前身「オウム神仙の会」を立ち上げ、八七年にはオウム真理教に改称。麻原死刑囚の言葉は、バブル景気に浮かれる当時の日本社会で生きにくさを感じる若者を引きつけ、一流大卒の理系エリートらも多く入信していった。

 「強烈なカリスマ性があった」。八七年にオウムに入信した、オウムの後継団体「アレフ」の元代表野田成人(なるひと)氏(51)は、麻原死刑囚についてこう振り返る。

 九〇年には、麻原死刑囚ら教団幹部二十五人が総選挙に出馬したが、惨敗。そのころから教団は武装化を進め、数々の事件を引き起こした。

 野田氏は、地下鉄サリン事件の直前まで麻原死刑囚と一緒にいた。「信仰の対象として、すべてささげた師。私には(犯行の)指示は下されなかった。やれと言われればやっていたと思う。本当に紙一重だった」

 九五年五月、麻原死刑囚は逮捕され、公判では事件への自身の関与を否定した。ところが、弟子たちへの証人尋問が始まると、麻原死刑囚は法廷で意味不明の不規則発言を繰り返し、何度も退廷を命じられるように。その後、次第に法廷でのやりとりに興味を失ったようになり、二〇〇三年には公判で居眠りする場面もあった。

 一審の弁護を担当した上出勝弁護士は、公判前から一審判決まで、東京拘置所などで麻原死刑囚と接見を繰り返した。接見では、目の不自由な麻原死刑囚の求めに応じて、チベット密教の高僧の伝記を朗読することも。〇三年に拘置所で約四時間かけ、最終弁論の要旨を読み上げた際には、麻原死刑囚は身を乗り出して聞いていたという。「宗教者の能力に触れた部分では、うれしそうに笑っていた。ちゃんと内容を理解しているなと感じた」

 民主党政権時代に法相を務めた平岡秀夫氏は一一年秋ごろ、東京拘置所でモニター越しに麻原死刑囚を確認した。「全く動かず、普通ではない感じがした」

 死刑が確定した麻原死刑囚は〇八年ごろから家族の面会にも応じなくなり、詳しい状態は分かっていない。四女が両親との相続関係を断つ申し立てをしたのを受け、横浜家裁が昨年五月、東京拘置所に麻原死刑囚について照会。拘置所は「かたくなに面会は拒否しているが、運動、入浴などの場合は抵抗することなく居室から出てくる」と回答したという。

 東京拘置所前には六日、警視庁の大勢の機動隊員らが警戒に当たった。公安関係者は「『殉教者』となった麻原死刑囚の神格化は避けられない」と警戒。信者による遺体の奪い合いや埋葬先が「聖地」とならないか懸念する。

 法務省関係者によると、この日は東京拘置所から麻原死刑囚の遺体が運び出されることはなかった。法令では、遺体や遺品の引き取り先は、本人が指名した人、配偶者、子ども−の優先順。麻原死刑囚の場合は、複数の親族が引き取りを求めているという。

     ◇

 地下鉄サリン事件から二十三年余。麻原死刑囚ら七人の死刑が執行された。王国を築き、日本を支配する妄想に取りつかれた「師」のもとで、高学歴の若者らが暴走した事件から、私たちは何を学び、伝えていくべきか。教団の軌跡や、風化を防ぐ動きなどをたどりながら考える。 (この連載は、山田祐一郎、奥村圭吾、岡本太、山田雄之が担当します)

 

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