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【社会】

浅利慶太さん死去、85歳 劇団四季創設「キャッツ」

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 劇団四季を創設した元代表で、ミュージカル「キャッツ」や「ライオンキング」を手掛けた演出家の浅利慶太(あさりけいた)さんが十三日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去した。八十五歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻で女優の野村玲子(のむらりょうこ)(本名浅利玲子(あさりりょうこ))さん。後日、お別れの会を開く予定。

 慶応大学在学中の一九五三年、俳優の日下(くさか)武史さん(故人)ら十人で劇団四季を結成。新進作家だった石原慎太郎さんと財界に劇場建設を働きかけ、六三年に開場した日生劇場(有楽町)の取締役も務めた。

 七〇年代から「ジーザス・クライスト=スーパースター」「ウェストサイド物語」「コーラスライン」といった海外作品の翻訳上演に取り組み、日本のミュージカル文化の礎を築いた。

 八三年には東京・西新宿に日本初となるミュージカル専用の仮設劇場を建て「キャッツ」を初演。コンピューターを使ったチケット予約システムも日本で初めて導入し、約一年のロングラン上演を成功させた。その後、各地に専用劇場を設けて長期公演をするシステムを展開。九八年初演の「ライオンキング」は公演回数が一万回を超え、国内演劇として最多記録を更新した。

 「オペラ座の怪人」「美女と野獣」などのヒット作を連発する一方、オリジナルミュージカルにも力を入れた。特に「昭和三部作」と呼ばれる「李香蘭」「異国の丘」「南十字星」は「戦争を風化させてはならない」という強い思いを込め、再演を重ねてきた。

 四季以外でも積極的に活動し、イタリア・ミラノのスカラ座では八五年初演の「蝶々夫人」や、二〇〇一年の「トゥーランドット」などオペラも演出。また、一九九八年長野冬季五輪では、開閉会式の総合プロデューサーを務めた。

 二〇一四年、四季の代表を退任。個人事務所を設立し、一五年には第一弾公演「オンディーヌ」を上演。以来、十二回のプロデュース公演を行ってきた。

 〇六〜〇八年には政府の教育再生会議委員、〇一〜〇六年には各界の有識者が二十一世紀への指針を提言する本紙「新世紀懇話会」の委員も務めた。

 「ジーザス−」で芸術選奨文部大臣賞のほか、菊池寛賞など受賞多数。

「キャッツ」の製作発表をした浅利慶太さん(左)と出演者ら=2004年7月、東京都千代田区のホテルニューオータニで

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◆「演劇は生きる喜び」

 亡くなった浅利慶太さん(85)は劇団四季を創設し、海外のミュージカル作品を次々と日本に紹介するなど、まさに演劇界の革命児だった。一九八三年初演の「キャッツ」で日本で初めて約一年のロングラン公演を実現させ、それまで一カ月程度が限度だった興行形態を刷新。スター俳優に頼らず、劇団員を育て上げ、全国の劇場で上演する四季のシステムは、演劇のすそ野を大きく広げた。日本に演劇文化を根づかせた功労者だった。 (五十住和樹、猪飼なつみ)

 「演劇界に革命を起こす」との志から、劇団四季を立ち上げたのは一九五三年七月十四日。フランス革命記念日だった。戦後の混乱がようやく収まり、左傾化した当時の演劇界では、翻訳調のせりふを自己陶酔したように語る劇団が幅を利かせていた。浅利さんはそれを厳しく批判し「演劇に詩と幻想を取り戻す」「舞台の成果だけで経済的に自立する」は四季の理念となった。

 歌舞伎俳優の二代目市川左団次を大叔父に持ち、父も「築地小劇場」の創立者という演劇一家に生まれた。演劇の奥深さを「演劇はね、半年やると狂っちゃうんですよ。人生の感動を書いた戯曲を伝え、お客さまが感動してくれる。人生の感動を担えるんですからね。生きる喜びをずっとやってきた」と話していた。

 若き日の寺山修司さんや谷川俊太郎さん、石原慎太郎さんらと交流を深め、各界の実力者とも独自の人脈を築いた。二十八歳の時、親交のあった東急電鉄社長(当時)の五島昇さんの紹介で、新設された日生劇場(有楽町)の役員に。「軽井沢の別荘で、佐藤栄作首相の長州弁なまりを直す家庭教師をした。中曽根康弘さんにはずいぶん働かされたなあ」と懐かしそうに振り返った。

 四季の転機は八三年。ロンドンで見た「キャッツ」に感動した浅利さんは「劇場を借りるより自分たちで持って長期公演をやりたい」と、西新宿の都有地にテント張りの仮設劇場を建設。当初は「続かなかったら首をつるしかない」と覚悟の上での挑戦だった。

 「一音を落とす者は、去れ!」。オーディションによる競争と猛練習で全体の底上げを図ってきた四季。劇場でせりふがよく通る独自の発声法は「日本語を徹底してやらなきゃ駄目」と浅利さんが約十年をかけて確立したものだ。常に劇団員に緊張感を求め、慣れを戒めた。「慣れたら芸術は止まる。終わりはないんです。いつも努力しなければ」。舞台に生き続けた、その言葉は厳しくも、視線は優しかった。

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