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【社会】

橋本忍さん死去 脚本家「羅生門」「七人の侍」

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 「羅生門」「七人の侍」などの名作を手掛け、日本映画を代表する脚本家だった橋本忍(はしもとしのぶ)さんが十九日、肺炎のため死去した。百歳。兵庫県出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長女綾(あや)さん。

 善と悪、愛と憎しみなどの対立概念を巧みに作品に織り込んで人間の本質を探究し、日本映画の黄金時代を支えたシナリオライターだった。

 旧国鉄に勤務し、軍隊を病気で除隊後、伊丹万作(まんさく)監督に師事。黒沢明監督と脚本を共作した一九五〇年の「羅生門」がベネチア国際映画祭金獅子賞などの映画賞を獲得、一躍脚光を浴びた。以後、「生きる」「七人の侍」など黒沢作品の脚本の共同執筆に加わった。

 また「砂の器」(野村芳太郎監督)や「霧の旗」(山田洋次監督)など、松本清張さん原作の脚本も手掛けた。

 脚本を務めた他の主な映画に小林正樹監督「切腹」、山本薩夫(さつお)監督「白い巨塔」、岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」など。

 脚本・監督作に、フランキー堺さんが主演した「私は貝になりたい」などがある。六八〜七〇年に日本シナリオ作家協会理事長を務めた。

◆構成の妙 黒沢監督に磨かれ

<評伝> 十九日に百歳で死去した橋本忍さんは日本映画史の背骨ともいえる傑作群のシナリオを手掛けた脚本の巨人だった。小説を映画化する際も原作にとらわれずに見せる構成の妙は、他の追随を許さない。巨人を誕生させたのは黒沢明監督との出会いだった。

 脚本術の一端を自伝「複眼の映像 私と黒澤明」に書き残していた。まだ「羅生門」(一九五〇年)に取り掛かる前、脚本の師匠伊丹万作監督から「原作物に手をつける場合には、どんな心構えが必要と思うかね」と問われ、橋本さんは「(柵の中に)牛が一頭いるんです」と切り出した。

 「私はこれを毎日見に行く。雨の日も風の日も…。それで急所が分かると鈍器のようなもので一撃で殺してしまうんです」。血をバケツに受けて持ち帰る。「原作の姿や形はどうでもいい、欲しいのは生血だけなんです」。牛は原作、血はその神髄を指す。

 だが、その意気で最初から傑作が書けたわけではない。黒沢監督との出会いが名手誕生には欠かせなかった。

 橋本さんが初めて脚本化に取り組んだのは芥川龍之介の短編「藪(やぶ)の中」。黒沢監督に読んでもらうと「(脚本が)ちょっと短いんだよな」と言う。橋本さんはとっさに「じゃ、(同じ芥川の)『羅生門』を入れたらどうでしょう?」と答えてしまい、苦悶(くもん)しながら「羅生門」を入れ込んで改稿。満足いかない出来だった。

 ところが、黒沢監督が手を入れた脚本を見て驚いた。橋本さんのとっさのひらめきの根っこを監督は見抜き、脚本に反映させていたという。

 以後、「生きる」「七人の侍」など黒沢監督と仕事を続けたが、五九年、オリジナル脚本で橋本さん自身が監督を務めた映画「私は貝になりたい」の時も同じようなことが起きた。作品は高評価を得たが、黒沢監督からは「橋本よ…。これじゃ貝にはなれねえんじゃないかな」と指摘された。後年、海の描写が足りなかったと気付かされたと、橋本さんは振り返った。

 黒沢監督の鋭い洞察で磨かれた橋本さんは、「砂の器」など特に松本清張さんの小説の脚本化で手腕がさえ渡った。

 次女によると、亡くなる三日前まで元気で毎日ワープロに向かい、ほぼ完成に近づいた小説「天武の夢」を執筆していたという。(共同・宮崎晃)

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