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【社会】

平和五輪 原点もう一度 1964年聖火最終走者・故坂井さんの妻「夫の願い」

1964年10月10日、東京五輪の開会式で最終聖火ランナーを務めた坂井義則さん=国立競技場で

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 戦争やテロが続く中で、五輪を「平和の祭典」と呼ぶことに、人一倍、思い入れの強い人がいた。1964年の東京五輪で聖火リレーの最終走者を務めた坂井義則さん(故人)だ。2年後には、建設中の国立競技場に新たな聖火がともる。妻の朗子(ろうこ)さん(71)は「五輪は平和の祭典であってほしい。それは夫の願いでもある」と話す。(清水祐樹)

 東京都練馬区の自宅には、当時の聖火トーチが大切に飾られていた。坂井さんは、二〇年大会が東京と決まった一三年の翌年、脳出血のため六十九歳で亡くなった。二度目の東京五輪を「子どもや孫たちと見に行きたい」と楽しみにしていたという。

 広島に原爆が投下された日、爆心地から七十キロ離れた広島県三次(みよし)市で生まれた。被爆はしなかった。早稲田大に進学し、陸上選手として五輪出場を目指したが果たせなかった。だが、聖火リレーの最終走者という大役が巡ってきた。

 同じ広島県出身の朗子さんは、聖火台を駆け上る坂井さんをテレビで見て「同郷として誇らしく思った」と振り返る。坂井さんは生前、自身が選ばれたことに「敗戦国の日本が平和国家になったことを世界に示したかったんだろう」と本紙に語っている。

 大学卒業後はフジテレビに入社し、スポーツ報道などに携わった。朗子さんが強く印象に残っているのは、一九七二年のミュンヘン五輪だ。過激派が選手の宿舎を襲撃し、十七人が死亡した。坂井さんは現場から電話でリポートを送り続けた。爆弾テロが起きた九六年のアトランタ五輪も、坂井さんは現場で取材した。

 毎年八月六日は、朗子さんと原爆特集番組を見るのが常だった坂井さん。五輪の現場でテロを取材する姿に、朗子さんは「五輪は平和の祭典だと習ったのに」と夫の胸中を思いやった。

聖火台(右奥)に点火したトーチを手にする坂井義則さん=2013年9月

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 五輪の起源はギリシャの都市同士が争いをやめ、祭典期間を「聖なる休戦」としたのが始まりとされる。「平和の祭典」と呼ばれる由縁だ。だが二〇〇一年には米中枢同時テロが発生。核兵器が減る気配もない。

 坂井さんは、東京大会が決まった一三年、本紙に「五輪の原点をもう一度、考えた方がいい」と話していた。「各国の首脳が集う五輪はテロの格好の標的になる」と危惧する朗子さんも、夫の願いがかなうことを心から望んでいる。

 

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