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【社会】

尾久初空襲 最後の語り部 絵で問う平和

尾久初空襲の光景を描いた絵画の説明をする堀川喜四雄さん

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 太平洋戦争中に米軍機が初めて日本の本土を襲った「ドーリットル空襲」で、最初に爆撃を受けたのが現在の東京都荒川区東尾久の住宅街だった。「尾久初空襲」と呼ばれるこの空襲を体験した男性が、記憶をたどりながら絵を描いている。紙芝居にもなり、子どもたちへの伝承が続いている。 (中村真暁)

 真っ赤な火の海を背景に、手が吹き飛んで倒れこむ行商の女性、頭から血を流して弱々しく歩くおばあさん−。凄惨(せいさん)な風景が一枚の絵に描かれている。

 一九四二年四月十八日。九歳の堀川喜四雄さん(85)=荒川区=は、自宅で留守番をしていた。ドカンと大きな音がすると、すぐに家全体が燃え上がった。絵は、台所の高窓から命からがら飛び降りたときに見た光景を再現した。

 開戦間もないドーリットル空襲では、国民の動揺や信頼失墜を恐れた軍が被害の詳細を伏せた。新聞は「被害は軽微」「敵機を撃墜」などとうそを交えて報道。毎日遊んでいた友人の美佐男君=当時(8つ)=も亡くなったが、堀川さんは小学校で「余計なことを言うな」と口止めされた。

 初空襲は東京大空襲などと比べ、当時を伝える資料などが圧倒的に少ない。堀川さんは約十年前から知人に誘われて「尾久初空襲を語り継ぐ会」に参加、語り部として活動しているが、地元でも初空襲を知らない人がほとんどだった。

堀川さんの絵を使った紙芝居「おじいさんの絵」を、中学校で披露する三橋とらさん=いずれも東京都荒川区で

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 「思い出したくないつらい記憶だが、忘れられるのは悔しい。伝わるように、語り継ぐ会の活動で視覚に訴えられれば」。会社員を退職後に趣味で始めた油絵で、三年ほど前から当時の記憶を描き始め、これまでに三枚を描いた。

 二年前からは、語り継ぐ会が毎年初空襲を伝える活動をしている地元中学校での公開授業で、絵の展示も始めた。

 昨年末には、地元の紙芝居師の三橋とらさん(35)が堀川さんの絵を使った紙芝居「おじいさんの絵」を創作。四月に荒川区立第九中学校の公開授業で披露すると、三橋さんは生徒たちから「知らなかった。伝えてくれてありがとう」と声をかけられた。「絵には堀川さんのくやしい気持ちがこもっている。どんな思いで描かれたのか考えてもらえれば」と三橋さんは期待する。秋には区内の別の中学校で披露する予定だ。

 語り継ぐ会では昨年九月、会を立ち上げた田村正彦さんが八十一歳で亡くなり、初空襲で被災した語り部は堀川さんだけになった。「戦争がない日本にしたいから」。今後も、初空襲の絵を描き続けていく。

<尾久初空襲> 米陸軍ドーリットル中佐率いるB25爆撃機16機が1942年4月18日に行った本土初空襲(ドーリットル空襲)のうちの最初の爆撃。現在の荒川区東尾久の住宅街に午後0時20分ごろ、爆弾3発と焼夷(しょうい)弾1発が投下され、死者10人、重軽傷者48人、家屋の全焼全壊52戸の被害が出たとされる。ドーリットル空襲では、東京、名古屋、神戸などが爆撃を受け、計87人が死亡した。

 

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