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【社会】

<東京の空襲>関東大震災参考に空爆 米軍、下町狙い焦土作戦

1943年10月に米軍が作成した東京焼夷区画図。濃い赤色が米軍が集中的に爆撃した「ゾーン1」、薄い赤色が「ゾーン2」。ゾーン1は関東大震災の復興図で示された、消失部分とほぼ一致する=米空軍歴史資料室の資料から

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 太平洋戦争末期の一九四五(昭和二十)年三月十日未明、米軍の無差別爆撃により十万人が死亡した東京大空襲は、米軍が二三(大正十二)年九月の関東大震災の被害を参考に、周到に計画を立てて実行していたことが、米軍の公文書の分析から分かった。東京市(当時)が発行した震災復興図などを参考に、燃えやすい地域を選んでいたとみられ、米軍が市街地を効率的に焦土化する計画を練り上げていたようだ。 (中尾吟)

 「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」の事務局長で、「日本の都市を焼き尽くせ!」の著書がある工藤洋三さん(68)=山口県周南市=が、米国立公文書館が開示している米軍資料などを分析した。その中から、東京市が関東大震災復興十年目に刊行した英文記録誌「The Reconstruction of Tokyo(東京の復興)」に掲載された地図が見つかった。

 地図には、震災での火災の発生場所と延焼の方向、焼かれた地域などが記されていた。地震後一時間で発生した火災の場所が黒い点で示され、米軍は、こうした地点で消防の消火力を上回る火災を発生させれば大火を起こせると想定し、焼夷(しょうい)弾による重点的な爆撃地点としたとみられる。現在の中央、千代田、台東、墨田、港区などに当たる。

 米軍の焼夷弾爆撃の計画を記した「東京焼夷区画図」(四三年十月作成)では、これらの地域を、最も燃えやすく、爆撃による効果が得られやすい「ゾーン1」に指定した。関東大震災後、復興は進んだが、都市の構造上、火の広がりやすさは変わらないと判断したとみられる。米軍は東京大空襲ではゾーン1に集中的に焼夷弾を投下。下町エリアが一夜で焼き尽くされ、住民ら十万人が死亡した。

 米軍はその後、ゾーン1に次いで燃えやすい「ゾーン2」に指定した現在の北、荒川、文京、新宿、品川、大田区なども段階的に爆撃し、焦土化した。

 日本の戦争継続能力を奪うため、米軍は早い段階から、日本の各都市の燃えやすいエリアを選定。東京の場合は関東大震災であらわになった弱点を突いたとみられる。工藤さんは「米軍は、人口密集度合いや建物の構造など、各都市のさまざまな情報を収集した上で、爆撃する場所を確定していた」と指摘する。

<東京の空襲> 太平洋戦争末期の1944(昭和19)年11月から米軍は爆撃機B29による東京への無差別爆撃を本格化させ、終戦まで100回を超える空襲を加えたとされる。木造家屋が密集する当時の日本の都市攻撃には、建物を焼く目的で油などを詰めた焼夷弾が有効とされ、特に45年3月10日未明の東京大空襲では、下町エリアを中心に焼夷弾を集中投下した。犠牲者は10万人に上るとされ、原爆投下を除けば、国内最大の空襲被害を出した。

 

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