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【社会】

<つなぐ 戦後73年>原爆展 西城さん遺志継ぐ 「広島の悲惨さ 繰り返しては駄目」

今年の原爆展に掲示された西城さんへの追悼の言葉=川崎市宮前区で

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 広島市出身で五月に六十三歳で亡くなった歌手の西城秀樹さんは、二〇一〇年に始まった川崎市宮前区での原爆の悲惨さを伝える美術展に、初回から賛同人として名を連ねてきた。広島原爆の日の六日を前に、展示会実行委員長の田中光雄さん(73)=同区=は「悲劇を繰り返してはいけません」というヒデキのメッセージを後世に伝えようと、思いを新たにしている。 (安田栄治)

 「僕は原爆ドームを見て育った。あんな悲惨なことを繰り返しては駄目だ。でも原爆を体験し、悲惨さを伝えていく人が減っている。だから、あなたたちの原爆展は貴重。趣旨に賛成します」

 三回目の開催を控えた一二年七月、西城さんはこう言って、賛同人を続けることを快諾したという。前年に二度目の脳梗塞を発症し、リハビリの最中だった。

 原爆展では、市民有志の実行委が、原爆の脅威を物語る画家や造形作家の作品を公民館などに展示。西城さんは第一回が開かれた当時、区内に住んでおり、実行委のメンバーらが自宅を訪問。賛同人を要請した。本人には会えなかったが、後日、引き受けるとの連絡が夫人からあった。

 田中さんが本人に会ったのは一二年七月が初めてだった。「奥さまにお会いできればいいと思っていたが、本人が対応してくれた。脚にまひが残り、つえを使っていた。でも、舌がもつれたり、言葉が切れることはなかった。『リハビリは痛くて大変。でも絶対に治してカムバックする』と笑顔で話され、強い気持ちが伝わってきた」

 三十分ほど話し「平和を願いながら歌い続けるのが、私が唯一できること」という言葉が印象的だった。西城さんは川崎から横浜に住まいを移し、原爆展は会場の都合などで毎年は開けなくても「気を使わなくていい。賛同人は続けるから」と告げたという。

 五回目(一五年)と六回目(一七年)はメッセージも寄せた。今年五月、七回目となる賛同とメッセージを頼もうとしていた時、訃報を知った。七月の原爆展で追悼の言葉を掲示した。

 田中さんは「脳梗塞を二度も発症したら、もうほかのことに関わるのはやめようと思ってもおかしくない。でも、西城さんは応援してくださった。それは私たちの誇り。永久賛同人と思い、原爆展を守っていきたい」と言葉に力を込めた。

◆「第五回宮前区平和のための原爆展へのメッセージ」

 第五回宮前区平和のための原爆展の開催おめでとうございます。

 私たちは、ヒロシマ・ナガサキの悲劇を二度と繰り返してはなりません。真の平和は、世界から核兵器を無くして初めて達成されるものと考えています。

 そのためには、皆さんのこうした取り組みが大切です。広島出身の私は、心から核兵器の廃絶を願っています。

 そしてこれからも、平和を願いながら歌い続けたいと思います。

 原爆展の成功をお祈りいたします。

 二〇一五年七月十日      西城秀樹

 

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