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【社会】

<「餓死」の島 戦争マラリアの悲劇> (中)消えた集落 補償もなく

終戦後、マラリアで廃虚と化した袖山集落の惨状を語る久貝義雄さん=沖縄県宮古島市で

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 「戦争は終わったのに、毎日のようにマラリアで死んでいった…」

 一九四三年秋、沖縄県・宮古島に海軍飛行場(現宮古空港)を建設するため、北へ約二・五キロ離れた袖山集落に強制移住させられた元小学校校長の久貝(くがい)義雄さん(87)は、マラリアまん延の恐ろしさを淡々と語った。「葬式の連続。ここにいたら命が助からないと、四十戸余りあった集落の人たちは次々と逃げ出し、最後まで残ったのは私と兄だけでした」

 地元の宮古タイムス紙は四六年十一月に、袖山集落の惨状を伝えている。総戸数四十一戸、住民三百六十人のうち、マラリアに罹患(りかん)したのは三十九戸、三百五十人(97%)で、死亡者三十八人、夫婦死亡七組、一家全滅一戸(五人)…。

かつて袖山集落があったとみられる宮古空港の北部=沖縄県宮古島市で

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 久貝さんもマラリアに感染した。終戦で少年兵部隊「鉄血勤皇隊」を除隊となり、自宅に戻って間もない四五年十一月ごろ、突然ガタガタという震えに襲われた。高熱を発し、意識がもうろうとして約一カ月、生死をさまよった。

 「耳元でかすかな声がし、はっと気づいた時に、枕元で母が泣いていました。私が治った後、その母も交代するように発病して一週間後に死に、父親も後を追うように死んだ」

 袖山には井戸水も畑もなかった。住民は毎日、デコボコの山道を約二キロ下った隣の集落に水くみに行き、沖縄製糖工場の土地を借りてイモや粟(あわ)などを栽培して生活していた。

 久貝さんは、マラリア大流行の要因を「水をくむのも、畑仕事をするのもマラリアの巣窟の湿地帯だった。そこで、住民が蚊にさされて猛烈な勢いでマラリアが広まったのではないか」と推測する。

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 久貝さん兄弟がこの地を去り、袖山集落は廃村となった。袖山と同じように、海軍飛行場建設に伴って立ち退きを迫られた住民の強制移住先だった七原、富名腰(ふなこし)、腰原(こしばる)の三地区には、二〇一〇、一一年に公民館が建設された。各地の旧軍飛行場建設で立ち退きを迫られた地権者に対する戦後処理の一環だが、廃村となった旧袖山集落の人々の声は届かないままだ。

 また、同じマラリアで死亡しても、軍人・軍属の遺族には国から遺族年金などが支給されていることを知る島民は少ない。

 海軍飛行場建設で運命が暗転、厳しい戦後を生き抜いた久貝さんが言う。「好んで住み慣れた集落から出て行ったわけではない。マラリアの危険と隣り合わせの湿地帯での生活に追いやられ、軍人と同じようにマラリアで死亡しても、われわれには何の補償もない。今にして思えば、不公平だという気持ちでいっぱいです」 (編集委員・吉原康和)

 

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