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【社会】

<象徴天皇と平成>(上)11歳の陛下、焦土に衝撃 「平和国家」戦後の原点

太平洋戦争中、学習院初等科5年の学友と茨城県の鹿島神宮を参拝した皇太子時代の天皇陛下(右端)=1944年5月4日

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 天皇、皇后両陛下は十五日、在位中最後の全国戦没者追悼式に出席される。昭和から平成へと時代が変わり、戦火の記憶が風化する中、陛下は折に触れ、戦争への反省と平和の尊さを語り続けてきた。戦時中は軍国少年だったという陛下が、戦後の新憲法下で象徴天皇のあり方を模索していく歩みは、父・昭和天皇の実像を知るところから始まったとされる。史料や関係者の証言で、平和を希求する陛下の原点を探る。 (小松田健一、荘加卓嗣)

 「歩調を取れっ」。引率教師の号令で約六十人の少年がダッダッダッと整然と進み、門をくぐる。一九四二年十月、千葉県の陸軍戦車学校。訪れた学習院初等科三年生たちの先頭を行くのは、皇太子だった八歳の陛下。将兵の出迎えに軍隊式敬礼で応えた。

 戦時色が強まる中、学習院初等科でも軍関連施設の訪問や神社での戦勝祈願などの行事が増えていった。陛下は四三年十一月、学徒出陣する学生の壮行行事に出席。その姿を捉えた写真を本紙は一面に掲載している。初等科以来の学友の栄木(さかき)和男(84)は、慣れた様子で敬礼した陛下の姿を思い浮かべる。「いずれ自分が天皇になり、観兵式で閲兵する立場ということは聞かされていたのだろう」

 旧憲法では天皇は大元帥として軍を率いる立場だった。当時の皇族身位令で皇太子は満十歳に達した後、軍の武官に任官すると規定され、陛下もそれに備えて乗馬を習っていた。軍部は士気高揚を理由に陛下の任官を昭和天皇に求めたが、戦況の悪化から、昭和天皇は認めなかった。

 本土空襲が激しくなり、陛下は学友と共に沼津、日光で疎開生活を送った。学友の橋本明(故人)は生前の本紙の取材に、「少国民で軍国少年だった」と、当時の陛下を評した。少国民は「天皇陛下に仕える小さい皇国民」の意味で、戦時中多用された言葉。昭和天皇を侍従次長として支えた木下道雄(故人)の「側近日誌」に、橋本の評価を裏付けるような陛下の作文が収められている。

 日誌は四五年四月二十九日付で昭和天皇の四十四歳の誕生日。昭和天皇が雨の中、外套(がいとう)を着ずに青少年学徒を閲兵したと聞き「実にご立派だと思ひます」とたたえ「それなればこそ命を投げ捨てゝ体当りをする特攻隊も出るのです」と、つづられている。学友の明石元紹(もとつぐ)(84)は「そうとでも書かない方がおかしい世の中だった」と回顧する。

陛下が、学習院の出陣学徒壮行会に出席されたのを1面トップで伝える本紙紙面(1943年11月23日付)。陛下は皇族方とともに敬礼で見送っている

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 戦局は悪化し、疎開先の日光にも米軍機が現れた。そして八月十五日。玉音放送があることを、前日に教師から聞かされていて、当日は学友と別の建物でラジオを聞いた。

 栄木によると「その前後で陛下の様子に変化はなかった」という。だが側近日誌には陛下の「非常に残念に思ひました」「無条件降伏といふ国民の恥を、陛下(昭和天皇)御自身で御引受けになつて御放送になつた事は誠に恐れ多い事」との作文が残る。

 十一月、十一歳の陛下は焼け野原となった東京に戻る。目に焼きついた衝撃を後の記者会見で「原宿の駅に降りた時、あたりが何も無かったのでびっくりした」と振り返っている。

 敗戦翌年の四六年一月、陛下は書道で「平和国家建設」と記した。明石はその六文字を「どこまで当時の陛下の思いを反映していたか分からない。『はやり言葉』みたいなものだった」と語るが、後の陛下の歩みを貫く言葉となる。 (敬称略)

 

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