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【社会】

藤田嗣治100年前のパリにて 若き才能 異国で交流

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 第一次世界大戦前夜、母国から遠く離れたパリで日本料理店に集い、ワインを傾けながら送別のうたげを開く。宇都宮市で見つかった洋画家藤田嗣治(つぐはる)らの寄せ書きからは、後にさまざまに活躍することになる若き日本人留学生が、異国で交流し、励まし合った様子が垣間見える。

 寄せ書きには、藤田と島崎藤村=当時(41)=のほか、いずれも画家の小柴錦侍(きんじ)=同(24)、柚木久太(ゆのきひさた)=同(28)、山本鼎(かなえ)=同(31)=の名前がある。

 小柴は、日本初の石版印刷(現在のオフセット印刷)会社創業者の息子として東京で生まれ、帰国後は宗教画を多く発表。兄が社長を務めた「東洋インキ」の取締役に就任した。

 父も画家だった柚木は、岡山県倉敷市出身で、帝展や日展の審査員を歴任。同市立美術館の杉野文香学芸員によると「東京・田端にアトリエを構えたが、東京大空襲で作品が焼けてほとんど残っていない」という。寄せ書きにはコミカルな自画像を描き、杉野さんは「これまで知られていなかったフランクな人柄がうかがえる」とみる。

 ドイツの詩人カール・ブッセの詩「山のあなた」をアレンジし「雲の彼方のなほ遠く 幸ひすむと人のいふ」とメッセージを書いた山本は、愛知県岡崎市出身で、帰国後に詩人北原白秋の妹と結婚。いとこの村山槐多(かいた)に絵を教え、画家になるきっかけを与えた。大正デモクラシーの空気の中、長野県上田市を拠点に児童自由画運動や農民美術運動に身を投じた。児童学習向けの日本初の洋画材料「サクラクレパス」の開発にも寄与した。

 送られた主役は、山口県岩国市生まれの桑重儀一=同(31)。山本と共に自由学園(現東京都)で絵画を指導した。

 美術史家の林洋子さんは「いずれも当時、三十歳前後の同世代で一人暮らし。音楽家、文学者など横断的付き合いがあり、送別会もその一つだったのでは」と分析。「ピカソらとも交流し、一九二〇年代にパリ画壇で一世を風靡(ふうび)した藤田も、渡欧直後は日本人美術家仲間を頼った。寄せ書きは彼の揺籃期(ようらんき)をうかがわせる」と評価する。

 この送別会から約四カ月後の六月二十八日、サラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ)でオーストリアの皇太子夫妻が暗殺され、第一次世界大戦が勃発。藤田以外の、寄せ書きに書いた藤村や画家たちは順次、帰国の途につく。

藤田嗣治の下宿があった住所「14シテ・ファルギエール」にはマンション(奥)が立つ。周辺には当時の面影を残す長屋(左)も残る=パリ市で(竹田佳彦撮影)

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◆画家に人気の地区 下宿先、隣にはモディリアニ

 【パリ=竹田佳彦】藤田嗣治の下宿先はパリ15区にあり、モンパルナス駅の西約五百メートル、ルーブル美術館から南へ約三キロの距離だった。

 下宿は数十年前に取り壊され、八階建てのマンションになっていた。隣には藤田と親交のあった画家モディリアニ(一八八四〜一九二〇年)の暮らした二階建て長屋が残り、当時の面影を伝えている。

 跡地のマンションで約三十五年前から管理人を務めるドミニク・ヨレさん(58)は「日本人画家がいたと聞いたことがあるが、誰かは知らない」と言う。

 近くにあった小柴錦侍の下宿先周辺には、古い集合住宅が立ち並ぶ。隣にあるギャラリーのエステル・ベルデオフ代表は「二十世紀の初めごろ、一帯は家賃が安く画家たちに人気の地区だった」と説明した。

 

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