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【社会】

下村脩さん死去 ノーベル化学賞 蛍光タンパク発見

2008年12月、授賞式を終え、メダルを手にする下村脩さん=ストックホルム市内で(共同)

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 生命科学の研究に不可欠な道具となった緑色蛍光タンパク質(GFP)をクラゲから発見し、二〇〇八年のノーベル化学賞を受賞した、海洋生物学者で米ボストン大名誉教授の下村脩(しもむらおさむ)さんが十九日、老衰のため長崎市で死去した。九十歳。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は妻明美(あけみ)さん。

 下村氏は米国留学中の一九六一年、米西海岸でオワンクラゲ一万匹を採取してGFPを発見し、翌年に論文を発表した。

 九〇年代に入って、GFPを作り出す遺伝子を調べたい細胞のDNAに組み込んで光らせる手法が開発された。この光を目印にして、細胞を生かしたままタンパク質や細胞の働きを観察できるようになり、GFPは生物学や医学、創薬などに欠かせない道具となった。

 二八年、京都府福知山市生まれ。幼少期を満州、大阪などで過ごし長崎県諫早市へ。十六歳で長崎に投下された原爆を体験した。五一年長崎医大薬学専門部(現長崎大薬学部)を卒業。名古屋大で博士号を取得し、六〇年に米プリンストン大に留学した。八二年から二〇〇一年までウッズホール海洋生物学研究所上席研究員を務めた。退職後は米マサチューセッツ州の自宅で研究を続け、〇九年には名古屋大特別教授となった。

 関係者によると、かつては米国在住だったが、最近は親族がいる長崎市で暮らしていたという。

◆長崎原爆経験「核兵器ない世界を」「人生観変わった」

 下村脩さんは「生物はどうやって光るのか」という素朴な問いを追究した。すぐに役立つ応用研究よりも基礎研究を好み、「難しいことほど達成した時の喜びは大きい」と話していた。

 二〇一三年九月、当時八十五歳の下村さんは、生物発光の研究に引き込まれたのは「運命だ」と話した。子供のころは、孫悟空のきんと雲で空を飛ぶのが夢だった。ゆくゆくは飛行機の設計者になりたかったが、太平洋戦争で夢は破れた。

 十六歳だった一九四五年八月、疎開先の長崎県諫早市で原爆を体験した。「強烈な閃光(せんこう)で目がくらんだ」といい、工場から自宅に帰るまでに、黒い雨で白いシャツが黒く染まった。

 勤労動員で勉強できず「中学の内申書がもらえなかった」。このため進学先の長崎医大薬学専門部(現長崎大薬学部)に入るのは、卒業から三年近くかかった。「しゃくだが、原爆が現在の私をつくったようなものだ」と語った。

 二〇一五年には、こうした体験を長崎市で開かれた、核兵器と戦争の廃絶を目指す科学者らの国際組織「パグウォッシュ会議」の世界大会で講演。科学研究には軍事技術に転用される恐れがあることを念頭に、「原爆のショックで人生観が変わった。戦争と核兵器のない世界を望む」と語りかけた。

 長崎医大を卒業後、名古屋大で発光生物「ウミホタル」の研究に没頭。一九五六年、米国の研究者が二十年間取り組んでも成果が出なかった発光物質の結晶化に成功した。「終戦以来、灰色だった私の将来に希望を与えた。夜も眠れないほどうれしかった」と振り返った。

 その成果を評価されて六〇年に渡米。米プリンストン大研究員になり、その後オワンクラゲからGFPを発見した。六三年に帰国し名古屋大助教授になったが、クラゲの発光機構を知りたいと再渡米。「研究に専念するための自由と引き換えに、研究資金や給料を自分で賄う厳しい道を選んだ」という。

 一人で研究することが多かった下村さんを支えたのは、妻明美さんだった。研究材料のオワンクラゲは、家族総出で採集した。子供二人が成長してからは、明美さんが研究室で助手として働いた。

 下村さんがオワンクラゲを採集していた場所では、GFP発見後、オワンクラゲは突然採れなくなった。下村さんの探求心のおかげで、人類は生命科学の研究に欠かせない道具を手に入れることができた。 (共同・川口敦子)

 

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